『風の人』復刻版2

;;準備号8 1997年11月29日発行 より
////////////////////////////////////////////////////////////////////////<11.29 城崎さんと共に浮かぶ夕べ 資料集>

A 共に浮かぶ会の皆様
[この手紙は米国からFAXで送られ、不鮮明なために欠落などの可能性がありますがご容赦ください---浮かぶ会]


 まず、会の皆様をはじめとしていろんな方々から力強いご支援・励ましをうけながらそれに十分に応えられなかったことをお詫びいたします。
 すでにご存じのことと思いますが、訴因4つすべてにおいて有罪という評決を許してしまいました。
 公判の第四週は、私の印象を許してもらうならば、合衆国による策謀=茶番で終始したというところです。
 前の週の終わりにH弁護士が、「数多くの申し立てをして検察側証人の何人かを排除する。....」という意味のことを言っていました。したがって、判事が「月、火は休廷で陪審員は水曜に....」と言ったけど、月、火もしくはそのうちの一日は陪審員抜きでの法律論争が闘われるものと私は考えていました。(このことで私は、支援、傍聴にかけつけて下さっているYさんから朝寝の自由を奪うということを許してしまいました。)
 裁判そのものに触れる前に、舞台裏での茶番である第二の散髪事件に触れなければなりません。
 私の収容先であるアーリントン拘置所の11A区では月曜が散髪日となっています。(拘置所のパンフでは、被収容者は月一回散髪することができる旨、書いてあります。が、それはあくまでもパンフの上のことであって、私に限って言えば、申し込んで無視されることがしばしばです)
 上述したように月火は出廷するものと考えていたのですが、ま、申し込みだけでもしておくか、出廷無しでかつ散髪オーケーということならもうけものということだろうという気持ちでした。しかし、月曜の出廷はなし。他方、他の者の散髪は大体いつもの時間に開始されたようでした。けど、私には声はかからず。ああ、またすっぽかしかと思っていました。
 「散髪だ」という声がかかったのはかなり遅くなってから。えっ、これから....なんとなく嫌な予感がしました。なにか口実をつけて断ろうか、という考えもチラッと浮かびました。しかし前の散髪から6週間経って大分伸びているし、かつ何よりも公判があとどれ位続くのかの見通し、メドも立っていない情況でしたから、このチャンスを活かすことにしました。
 しばらく待って私の番。散髪屋はまったくの新顔。なるほどおしゃべりが全然聞こえてこなかったのはそのせいかと納得。
 開始したとたん、「しまった!」と思ったのですが、もうやめるわけににはいきません。散髪屋の手がふるえていたのです。これではとんでもないことやられかねないな、とこちらも内心びくびくもの。多少おかしくなってもかなわない、早いとこ無事に終わってくれることを願うのみでした。
 ちょっとたっては進行具合を見定めて....という感じでさっぱり進まないのです。そんなとき、突然「まだ公判中なのか?」と尋ねてきました。「そう。しかし、どうして知っているの?」と私が応えたとたん、看守が飛び出してきて、「早くしろよ!時間がないのだから、あと5分で終れ!」と言うと同時にすぐ近くでの監視体制に入りました。
 私は、「この調子では5分では終れないだろう。けど看守が看ていればこいつもそんな変なシバイはうてないだろう」と考えました。まったくうかつな話でした。
 しばらくして、これで終りと言ってきました。びっくり。耳のうしろからエリにかけてふさふさした髪が残っていたのです。「やられた! バカだな!」と後悔。というのも、あの散髪屋(囚人)はもちろん、そこの看守も護送の看守もみんなグルで、奇怪な姿を知っていても知らぬふりをしていたのです。にもかかわらず看守がいるからまだ安心だなどと考えていた自らのおろかしさ、甘い考え、....まったくバカとしか言いようがありません。幸いにも、火曜はナショナル・ホリデー。当然、出廷なし。そこでレクリエーションの時間に同囚に助けてもらって、このふさふさを切り落とし、うしろ首部に一線を画してもらいました。(*ママ=風の人準備号8で「一線を画してもらいました。」と記載されている)はさみが使えるのなら簡単なのですが、使えるのはT字形カミソリだけ。これでこうした作業をやろうとすればけっこう時間がかかる上、なかなかうまくいかないのは言うまでもありません。それでも、なんとか見れる程度にまでやってもらいました。助けてくれた同囚には感謝感謝。
 同時に、この調子でFBI・検査側の汚い策謀を乗り越えて絶対に無罪を勝ち取るぞと私の意気込みもあらたにしました。しかし。それは私の意気込みだけだったようです....。
 水曜からの公判が再開されてまたびっくり。
 まず、弁護士側からの申し立てが、言われていたのとはうらはらに、すごく少ないし、弱弱しい。更に、弁護側は当初20人余りも証人申請していました。すでにそのうちの何人かは取り下げていることはわかっていましたが、少なくとも(1)Mr.石田=Mr.菊池=私とする検察側のでたらめな論理にはっきりと楔をうちこみ、(2)インドネシア当局を中心とする指紋操作をより鮮明にさせるための証人を幾人かは呼ぶものと考えていました。しかるに、弁護側証人のインドネシア人は一人も来ないということがまず明らかにされました。あの軍部独裁の国では、弁護側証人として出てくるということはそれだけでも危険なことになるのです。加えて、US人も一人も呼んでいないということが示されました。
 代わって、国務省の対テロエージェント--検察側証人としてすでに出廷--を呼んで尋問するということになっていたのですが、T弁護士の論理、追及にぜんぜんサエがかけているのです。申請していたインドネシア人証人が何故これないのかUS側の初動捜査がなく、1年半近く後に初めて動き出したことなどを陪審に説明することもしません。加えて私が当然追求するものと思っていた、このエージェントのレポートにある箱(ロケット発射台-木製)を発注して作らせたという大工に関したことなどまったく触れずというありさまでした。
 他方、公判中、検察側に同席していたFBIエージェントへの尋問においても、そのでたらめな調書と証人たちの法廷証言との矛盾や「模擬法廷」なるもので「目撃」証人に私の座席位置を示したことなどを追求し、弾劾するのかと思っていたら、これもなんか形式的というか焦点がぼやけたウヤムヤ尋問で終ってしまいました。
 おいおいどうなってんのこれは?! これじゃ茶番だぜ?!...と思ったけど、これはあとのまつり。「これで全ての尋問を終了し、後は接辞のための法律家議論を判事室で....」という始末でした。
 最終陳述においてもそうしたあり方は続きました。とういうよりも更に輪をかけたような情況だったと私には感じられました。
 あの生彩のなかった検察側がわりときちんと論理をつくって(まさに作って!)陪審員に訴えているのに、T弁護士の方は全然サエがないのです。ほとんどが冒頭陳述の蒸し返し的なもので、新しく出てきたことをも取り入れて陪審員に説得していくという気概に欠けていたのでした。
 私は、少なくとも、(1)Mr.石田と私はまったく別人であることが法廷で明らかになったこと、(2)Mr.菊池もまた別人であることは明らか、唯一Pホテル元レセプショニストが“かわいさが残っている”といった新説をもって“覚(*ママ)えている”と言っただけ。しかしその論理は矛盾に満ちたもの、逆に別人であることを示す証拠は幾つもあること、(3)指紋に関しても検察側証人たちの発言はあまりにも多くの疑惑を残したし、別の角度からもいろんな形で多くの疑問を浮かびあがらせていること、(4)その他にも検査側ストーリーは幾つもの疑惑があること、そういった諸点を陪審員にたいして具体的かつていねいな解説をしていくものと考えていました。(ここではそうした具体的な指摘はしません。最終陳述をもっとつっこんで検討する必要があること、そして何よりもそうした諸点は控訴と大きく関係していることなどの理由からです)
 ところが、T弁護士の陳述は、それらの諸点に触れてはいるのですが全然するどさがないのです。冒頭陳述でH弁護士が展開したことの二番煎じ的なものでした。たとえて言えばみんなと一緒に力を入れて重い荷車を押しているように見せかけながら、実際にはそうしたポーズを作ることに力が注がれているだけで、押し方には全く力が入っていないようなものということができるでしょう。問題点をついているようで肝心なところが抜けているのでさっぱりサマにならず、当然ながら陪審員に訴える迫力はなし....といった代物でした。
 「本当?!」と言われるかも知れませんが、私はこのT弁護士の最終陳述の途中までは、自らの勝訴を信じて疑わなかったのです。上述の第二の散髪事件に示されるようにジタバタと悪あがきしていたのはFBI検察の方であり、自分たちの側はそうした策謀を打ちくだき、のりこえていくことができると確信していたからです。
 でも、散髪事件では看守達が共謀していたように、公判でもどうも弁護士までは(*ママ)グルになった茶番劇を演じていたのかもしれません。そこまで考察した上で対応策を考えるということは私にはとても出来ることではありませんでした。
 推測であれこれ言うのは良くないのですが、それを裏付けるようなことが起きています。
 評決が言い渡される前には、その内容は陪審員以外には誰も知らない---というのが原則です。ところが、評決言い渡しの前にT弁護士らが法廷裏の金網のところにきて、有罪を前提としたことをあれこれと私に説明したのです。陪審員が入る前の法廷でもT弁護士は「あとで陪審員有志と話がしたい」と申し出ました。更に、評決を聞いて私が暴れだす....とでも思ったのか、これまでの席順を変えて私を二人の弁護士ではさむようにした上で、二人の廷吏もすぐ近くに陣取るという念の入ったシフトでした。
 USクリントン政権の対テロ政策を誇示するための広大な茶番劇というところかと思わずにはおれませんでした。
 でも、くじけることなく、着実かつ確実な反撃をしていくつもりです。皆様にはひきつづき御支援をお願いします。
 97年11月15日
 城崎 生


「風の人」 創刊号(通巻9号) ‘97.12月号
  1997年12月14日発行  年間購読代千五百円
  4 城崎さんと共に浮かぶ会・神奈川
  5 郵便振替  00260・4・86033
  6  東京都港区新橋2−8−16石田ビル4F       救援連絡センタ−
  7  川崎市幸区古川町66                       関  博明
  8  大和市大和東3−3−7〜201(0462−61−8450) 桧森孝雄

              城崎さん、50才の誕生日おめでとう!

11・29の夕べ
 あのどしゃぶり中、12人の方々、何人かの社会部記者の方々が集まってくださいました。正直今時こんなに来て下さるとは思ってもいなかったので、なにがしかの友情を感じました。
 集いでは、陪審評決に立ち会われた救援連絡センタ−の山中さんのお話の後、米国の陪審制度と今回の裁判について喜田村弁護士からお話がありました。喜田村さんのお話は参考になるもので、文章にして下さいとお願いしています。近々には誌上に載せられると思っています。
 集いでは、たまたま来られていた菊村さん救援の方、レバノン日本赤軍救援の方、タイ田中さん救援の方から声を伺うことが出来ました。
 城崎さんからのメッセ−ジも届きました。
 最後に、集いのアピ−ル(前号掲載)を採択しました。アピ−ルは色んな言葉で、色んな国や地域の方々に送ります。

『風の人』創刊号となりました
 遅ればせですが、救援の姿勢と方向を少しは定められるかなと思っています。箇条書きにしてみました。
① 城崎さんの無罪主張を支持する。
② 城崎さんの自由意思による日本への帰国を求める。
③ 日米共同の「反テロリズム」国際専制政治による、ネパ−ルから米国への強制連行と拘束、及びデッチあげ裁判に抗議・反対する。
④ 城崎さんの獄中生活を援助・支援する。
⑤ 自立・対等の関わりで救援に参加する。
⑥ 世界中の多くの方々との共同をめざす。
 これらは多くの方々と交わる中で、より豊で実際に即したものになっていけるでしょうか。

城崎さんの現状
前号で城崎さんの拘置先を独断で明示しましたが、その後の城崎さんの手紙には、独断批判がなくホッとしています。多くの皆さんからの文通をなされることを望んでいます。
獄中処遇での嫌がらせがひんぱんに続いていることは前号までの記録に示されています。
米国で面会、文通されている方は弁護人関係を除いて1〜2名のようであり、それも間欠で英語によるものです。
一審の弁護人は、国選のタッカ−弁護士と他1名です。一審は、弁護人と城崎さんとの意志一致がなされないまま進んできています。城崎さんからの手紙では、予定されている量刑判決が、城崎さんの意向を無視して判事判決とされたと記されています。(米国では、陪審・判事のどちらかに量刑判決を委ねる選択権が被告側にあります。)
量刑判決以降、約一ヶ月間は現拘置所に在監しているようで、日本語によるスム−ズな文通が可能のようです(あてになりませんが、通常は3〜6日間で『塀』を越えます)。いわゆる刑務所に移ると日本語での文通は、数ヶ月を要すると思われます。日本語でクリスマスカ−ドでも送られる方は、どうぞ。なお、書籍類は全て出版元からの送付でなければ受け付けられません。
    Mr.TSUTOMU SHIROSAKI
       # 59724
       ARLINGTON COUNTY FACILITY
1435 N. VA 22201
U.S.A

山積みの課題の前で
次号から課題の整理と取りかかりの方向に着手したいと思っています。

(カンパ、ありがとうございました。心から。)

「風の人」2号(通巻10号)THE MAN IN THE WIND
THE SUPPORTING NEWSPAPER FOR MR.SHIROSAKI
風の人 タクラマカン砂漠の風はどんな味がするのだろう
No2(通巻10号)   ‘98.1月号
3 98年1月11日発行  年間購読代千五百円
4 城崎さんと共に浮かぶ会・神奈川
5 郵便振替  00260・4・86033
6  東京都港区新橋2−8−16石田ビル4F       救援連絡センタ−
7  川崎市幸区古川町66                       関  博明
8  大和市大和東3−3−7〜201(0462−61−8450) 桧森孝雄
 新年の報告
 城崎さんの無実−即釈放を求める試みは、1月26日の量刑判決公判を当面の課題としています。弁護人と城崎さんとの意志疎通がかみあわない状況下でも、米国=FBIの隔離政策が強化される中で、よりいっそう互いの交わりと確信を固める試みが問われています。
 検閲、嫌がらせの強化 ア−リントンでは検閲が建前上はないことになっていますが、FBIの管轄下にある城崎さんへの通信が完全な検閲下にあるだろうことは予想されたことです。11・29の集い前後の通信はいまなお彼の手元に入っておらず、救援の方向を相互確認することが困難な状況です。その他の通信も4週かかるものが出ており、抜き取られ手元に入っていない件も報告されています。
 在米救援の創造 現在、城崎さんと面会しているのは、隔離政策と歩を同じくしている弁護士サイドと宗教関係者のみです。在米救援の創設がいっそう重要となる段階ですが、在米の自覚した人々への通信も実り未だなく、11・29集会アピ−ルの各種団体への送付に対しても応答は未だなしです。歩みはノロくても、試みは続けられます。
 量刑判決公判 今回もYさんが渡米されます。私達も可能なことは一つ一つ続けます。皆さんのご理解とご支援をお願いします。(浮かぶ会)

1・25 城崎さんの無実−即時釈放を求める集い IN OSAKA

   陪審−有罪評決に抗議し城崎さん自身の意志での
自由帰国を求める大阪の集いを

   日時;1月25日午後2時から
場所;海員会館(〜人民新聞社
       (大阪市港区港晴3−3−18 地下鉄中央線「朝潮橋」駅下車徒歩約7分)   集い参加費;百円
    〜城崎さんと浮かぶ会・神奈川〜
    TEL・FAX;0462−61−8450
      (留守電利用もお願いします−ヒモリ)
=今号掲載文について=
① 11・29集いアピ−ルは英訳をお願いし、在米関係に送らせてもらいました。翻訳していただいた方に改めてお礼申し上げます。
② 日本赤軍が96年9月に城崎さん被逮捕に際して声明を発表していたことが、昨年の12月31日に、東京拘置所に拘束されている丸岡修さんの手紙から判明しました。声明は86年ジャカルタ闘争に城崎さんも日本赤軍も関与していないと表明しています。当該資料を送っていただいた方々に改めて感謝を述べさせていただきます。
③ 東京拘置所に拘束されている浴田由紀子さん、丸岡修さんから、城崎さんは日本赤軍のメンバ−ではないとのメッセ−ジをいただきました。
  ②と③は一審公判全体の前提を取り除く「証拠」であり、量刑判決に活用されるよう、あらゆる努力をなすつもりでいます。現在の弁護人が、日本側救援と交通を開く意志がないことを表明している下で、どれだけのことが出来るか不明ですが、世界中の人々と手を携えていく中でしか城崎さんの無罪−即時釈放の大道が真に創り出せない以上、試みを最後まで続けます。皆さんのご理解とご支援をお願いします。(共に浮かぶ会・神奈川)


「風の人」3号(通巻11号)THE MAN IN THE WIND
THE SUPPORTING NEWSPAPER FOR MR.SHIROSAKI
1 風の人  タクラマカン砂漠の風はどんな味がするのだろう
2 No3(通巻11号)   ‘98.2月号
3 98年2月15日発行  年間購読代千五百円
4 城崎さんと共に浮かぶ会・神奈川
5 郵便振替  00260・4・86033
6  東京都港区新橋2−8−16石田ビル4F       救援連絡センタ−
7  川崎市幸区古川町66                       関 博明
8  大和市大和東3−3−7〜201(0462−61−8450) 桧森孝雄
 量刑公判が20日へ延期になりました
 1月26日予定の判決日が2月13日に延期され、更に2月20日に延期されました(2月12日に複数から伝聞情報が入りました)。延期の正確な理由は分かっていませんが、城崎さんからの手紙(1月29日付、2月11日落手)に「今週こそPO[Probation Officer]面接かと思っていたのですが、どうも2月へと持ち越しのようですな。POを保護監察官と訳すみたいだけど、日本のそれとはちがって、POは判事の量刑考察にも影響するところから、ひょっとすると、2・13もまた延期となる可能性なきにしもあらず、という感じです」とあります。
 陪審評決から量刑宣告まで3ヶ月以上もかかるのがどんな意味合いを持つのか、注視し続けたいと思っています。4つの起訴罪状で有罪となり厳しい量刑が予測されるのですが、ノ−コメントを貫いている城崎さんに、出来るだけ多くの方々の励ましが伝わることを願っています。
 1・25大阪の集い報告
 今冬一番の寒さとなったのですが、9名の方々が集まってくれました。初めて会う方々とも突っ込んで話し合うことが出来ました。ネパ−ルからの強制連行−デッチ上げ拘束に抗議し、無実−即時釈放をベ−スに取り組んできているのですが、裁判方針−体制となじんでいない状態で、参加の方々からは救援会、しっかりしろとお叱りをいただきました。話し合いを深めながら城崎さんからのシグナル待ちが続いています。
 無実−即時釈放の試みがどんな関わりの中で展開するのか、集いでは少なくない示唆をいただきましたが、在日・在米の方々に知っていただく機会も少しずつ拡がっており、足元を確かめながら進んでいきたいと考えています。
 3編掲載について
① 11・29東京の集いで話された喜田村さんの講演を文章にしていただきました。問題の所在をト−タルに考えさせるものです。
② 城崎さんのお母さん方が作成した上申書を掲載します。1月、タッカ−さん➝米国Pさん➝日本Yさんで入った作成依頼に浮かぶ会が相談に乗りました。
 (1) 情状酌量〜上申書の意図−有効性が不明でしたが、ご家族が判断し対応する問題であり、ご家族の意向を尊重する。
 (2) 作成された上申書は、米国・連邦地裁通訳によらず、喜田村さんに作成をお願いする。
 (3) 提出の最終判断は、城崎さんによることを条件とする旨を添付し送付する。
 主にこれら確認のもとになされました。喜田村さんの英訳文はすばらしい詩となっています。
③ 城崎さん−丸岡さんの往復書簡。城崎さんからは公開を前提として書いた部分があると示され丸岡さんからは差し出し文の公開も可との手紙をいただきました。
今回もYさんが渡米されています。もう3度目。体調を維持されることを願っています。
  量刑ができるだけ短いものであることを願いながら、城崎さんとの自由まで、無実−即時釈放の試みを最後まで、ボチボチと。(浮かぶ会)


「風の人」4号(通巻12号)'98.3月号 98年3月28日発行
タクラマカン砂漠の風はどんな味がするのだろうか

年間購読代千五百円
城崎さんと共に浮かぶ会・神奈川
郵便振替 00260-4-86033
東京都港区新橋2-8-16石田ビル4F 救護連絡センター気付
川崎市幸区古川町66 関博明
大和市大和東3-3-7-201 檜森孝雄

無実の城崎さんへ禁固・30年の宣告、弾劾!

 コロンビア地方連邦地裁(ジェイムス・ロバートソン判事)は2月20日、昨年の11月14日になされた陪審・有罪判決のもとに城崎さんへ禁固・30年の刑を宣告しました。有罪訴因の「殺人未遂」に20年、「建造物等への攻撃」に10年、都合30年でした。
 宣告から日が経つにつれ、言い知れない怒りというものでしょうか、地に滲み溢れるような感が増しています。私たちは、この一審を通して自分たちの無力を幾度も思い知らされてきましたが、城崎さんとともにアメリカからの自由を勝ち取るまで、世界中の心ある人々との共同を求め続けます。

共に浮かぶ会の皆様
98・2・20
城崎 勉

 御存じのことと思いますが、量刑宣告は30年でした。
 弁護士は初めのうち「マクシム25年」と言っていたのですが、いつの間にかそれを「30年」へと水増し。「後で、自分の努力でヤスクしたと自慢するためかな」、「国家の意を受けてのことかな」「多分その両方が合わさったものだろうな」……なんて考えたものでした。
 その国家(アメリカ帝国主義)の論理は、検察側の宣告に向けての文書に如実に示されているのですが、でたらめ至極という意味で、実に興味深いものです。
 公判過程などで自己破綻してしまった私=Mr.K(※注.菊池俊介)=Mr.I(※注.石田博文)などといった論理やニューデリーシティバンク爆破の犯人としてインド当局は起訴の構えにある(FBIやUS検察はでっちあげに失敗したということを忘れてる!)などなど、いやはやどうしてこんなに自分たちのツラの皮の厚さを公然と自慢できるのだろう、とおどろくことが多々あります。が、それについて、ここで一々取り上げて云々することはしません。
 ここで触れておいた方がいいと思うのは帝国主義者の危険な論理についてです。
 僕らは、<私が日本赤軍のメンバーであることは疑うことのない事実であり、この悪名高きテロリスト組織は“US市民なら誰であっても殺せ”といった論理をもっており、ジャカルタ事件は他の幾つかの事件(あたかも私がその全ての実行主体であるかのようなレトリックを展開している!)と同様それを明確に示した、したがって世界のテロリストへのメッセージ、警告としても厳罰、極刑を適用せよ>といった論理を展開しました(検察の文書、及びそれに添付の国務省の対テロ責任者の文書はテロリストへの報復、みせしめの必要性を強調)。
 弁護士が、公判廷で私が日本赤軍のメンバーではないことを主張しようとしなかったということが彼らにこのような論理を許すことになっている一因とも言えるのですが、それに関してはスタインホフ教授からの文書が正しく指摘しており、ここであえて云々する必要はないと思っています。
 「帝国主義の危険な論理だな!」と思うのは、「US市民なら誰でも殺せ……というテロリストへの報復、みせしめ……」という考えです。
 ナチのユダヤ人狩りと同じ発想であり、実は米国が第二次世界大戦時に日系人に対してとった処置と同様の発想です。現在、「イラクへの攻撃をせよ!」といった論調がUS内では圧倒的ですが、そうした中でイラク系市民が肩身の狭い思いをさせられているというのとも通底しているでしょう。
 ずっと昔、<日本語の本に、アラブ人は『ユダヤ人を海にたたきこめ!』と突撃してきたが、ユダヤ人はこれをはねかえした、その論理は今もアラブ人に共通している……といったことが書いてある>と言ったところ、友人のパレスチナ人が顔を険しくして、<日本ではそんなことが信じられているのか?! 確かに運動の初期の頃、そういう人たちもいた。が、それは歴史の中でのことだ。なんということだ……>と絶句してしまったのを憶い出さずにはおれません。戦闘の中で、そうした言葉を口にする者もいるかもしれません。しかし、パレスチナ革命はそんな誤りを何度も何度も否定して発展してきたのです。
 それと同様に、US市民なら誰でも……というのは、帝国主義者自身の発想法の反映でしかないのであり、それをもって、みせしめ、報復を正当化しようとして、自らのあわれな思考法の馬脚をあらわしてしまったのです。
 ジャカルタの件ではスハルト独裁体制、シティバンクの件ではインド、そして私の逮捕はネパールというように、アメリカ帝国主義第三世界の腐敗、汚職を利用して、でっちあげをなんとかそれらしく保っているだけ、と言ってもいいのが実情です。
 どうせ裁判なんて茶番、勝手にするがいいさ……という思いが基底にあります。というのも無罪、無実を立証しようとしても、へたをすれば奴らの思うツボということにもなりかねないからです。しかし、こんなメチャクチャな論理を用いられると「勝手にするがいいさ」と言ってもおれないようですな。はてさて……。
 なお、『風の人』2号に掲載された丸岡氏の証言などは、そのものとしては活かせませんでしたが、スタインホフ教授が引用―証言という形になりました。
 それと、ジャカルタ事件は例の量刑ガイドラインの施行前のことなので、その適用とはならないことも伝えておいた方がいいかと思います。
 ともに!

暖かくなり、土が動き始めました

 2月21日早朝、ワシントンのYさんからFAXが入っていました。電話で、検察側70年の求刑だったことを知りました。宣告と同時に城崎さんは控訴審の取組みを始めているようです。弁護人は一審と同じタッカー弁護士。
 城崎さんは3月16日にワシントン・アーリントン拘置所からオクラホマへ移動し、ここで一ヵ月くらい過ごした後、“新居”も移るようです(救援関係者への手紙から)。“新居”がわかりしだい、お知らせいたします。
 一審までの歩みの断片を『風の人』に紡いできましたが、一区切りをつけ、振り返ってみたいと考えています。アメリカでの政治裁判では何が求められ、どういう救援が求められているのか、公判―救援関係を整理して提出します。狭い、個々の孤立的な状況と関係を直視し、できるだけ多くの方々との共同を探りたいと希望しています。
 なお、1月25日の大阪集会へ城崎さんはメッセージを送ったそうです。例のごとく中身の一部が途中で消えたのでした。日本側からの手紙も肝心なのはよく消えたようですなあ。怒り、天に達すれば、無言の微笑となります。
 城崎さん、風に乗せて、握手を!

 2月会計報告は3月分と合併で4月号に掲載します。購読料とカンパ、本当にありがとうございました。
(城崎さんと共に浮かぶ会・神奈川)





「風の人」5号(通巻13号)THE MAN IN THE WIND
Free!SHIROSAKI
1 風の人  タクラマカン砂漠の風はどんな味がするのだろう
2 No5(通巻13号)   ‘98.4月号
3 98年4月30日発行  年間購読代千五百円
4 城崎さんと共に浮かぶ会・神奈川
5 郵便振替  00260・4・86033
6  東京都港区新橋2−8−16石田ビル4F       救援連絡センタ−
7  川崎市幸区古川町66                       関 博明
8  大和市大和東3−3−7〜201(0462−61−8450) 桧森孝雄
 城崎さんへ風の香りを乗せたシグナルを
 城崎さんはテキサスへ移りました
  四月半ば、城崎さんからお母さんへ手紙が届いたとの知らせが入りました。その後どうしているのか、郵便物の幾つかが返送されていた中での便りでしたから一安心です。どうも無一文の状態でオクラホマに送られ、そのままテキサスへ移されたようで、切手も封筒もなく同房者からもらってようやく手紙したようです。
  20日過ぎ、もう一通の手紙が城崎さんから届いたとの知らせが入り、少し詳しい事情が伝わってきました。城崎さんの新しい住所は次の通りですので、風の香りを便りしてくだされば、と思っています。日本語でも英語でもかまいません。
  新住所(New Adress)
Mr.T.Shirosaki
# 20924−016
U.S.P
POBox 26030
Beaumont.TEXAS
77720−6030
U.S.A
 城崎さんとの通信が確保されますように
  昨年11月の有罪評決以降とくに、日本の救援会からの手紙類は入りにくくなっていました。11月の集会アピ−ル文も今年になってようやく城崎さんの手に渡ったことが確認され、集会で書いていただいた寄せ書きと11月集会を受けてまとめた救援方針文書とは今なお城崎さんへ渡っていないことが確認されています。城崎さんからは今年1月の大阪集会へのアピ−ルが届いていないことは、前号でおしらせした通りです。城崎さんのNo.を付した今年の手紙は数はそろっていますが、中身がそろっていないのです。3月に入って送られた手紙類では、城崎さんが入手できたと確認できたのは救援会以外の2通のみで、「転居先不明」や「名あて国から返送理由が明示されずに返送」が相次いできました。
  こうした通信状況の一端からしても、米国政府の姿勢は明らかです。通信や獄中処遇を巡って実に様々な訴訟が相次いでいる米国事情を知るにつけ、生活の権利は闘い取るものでしかないんだなあと改めて思い知らされています。
  他方、城崎さんは弁護士のタッカ−さんへ所持品(金)の送付を依頼したところ、急ぐ必要もないとの返事をもらったようです。とりあえず、百ドルだけマネ−・オ−ダ−で救援連絡センタ−から送ってもらったのですが、これが受取拒否されるようだったら別の方途を手立てしたいと思っています。なお、在米の人権活動家の一人からは、城崎さんがタッカ−さんを弁護人としているのは恥であるとの手紙をいただいており、有罪評決以降の城崎さんの孤立状況を憂慮しています。
  様々な障害と課題がますます明らかになってきていますが、裁判の要である「被告−弁護人−救援」の関係を創りあげていくために、今一度、城崎さんとの交通を確保したいものだと願っています。皆さんからの知恵と力をお待ちしています。

「風の人」6号(通巻14号)THE MAN IN THE WIND
Free!SHIROSAKI         98年5月10日発行
1 風の人  タクラマカン砂漠の風はどんな味がするのだろう
2 No6(通巻14号)   ‘98.5月号
3 年間購読代千五百円
4 城崎さんと共に浮かぶ会・神奈川
5 郵便振替  00260・4・86033
6  東京都港区新橋2−8−16石田ビル4F       救援連絡センタ−気付
7  川崎市幸区古川町66                       関 博明
8  大和市大和東3−3−7〜201(0462−61−8450) 桧森孝雄
 元気にしてるようだなぁ〜、城崎さぁ〜ん
  「どないしてるんやろなぁ」と思っていたら救援関係に手紙があいつぎました。バ−モントの連邦刑務所は外部と「住民」との交信を大事にしているようで、日本語の手紙は2週間、英語の手紙は1週間で着きました。翻訳体制がどの程度かまだはっきりとわかりませんが、日本語の手紙は時間がかかるものだと思っておいた方がいいようです。
  前号で、いわば「着のみ着のまま」のテキサス移住をお伝えしましたが、ワシントンからの送金もあり、ラジオを購入し、切手の購入も不自由なくなった様子が垣間見られる手紙でした。
  ア−リントンやオクラホマのような、堪忍袋の緒が切れた訴訟覚悟!が懐かしくもあり、それなりの前提が感じられるテキサスからの便りでした。
  ご存じと思いますが、紙表紙の印刷物なら何でも入るはずです。厚紙表紙の本や新聞は出版元などから送ってもらっています(つもりです)。
  もう5月です。バ−モントはメキシコ湾のヒュ−ストンに近そうなところにあります。控訴審の便りも近いでしょうか。風、届け!(城崎さんと共に浮かぶ会・神奈川)

  次の案内は、城崎さんの救援に関わるようになってから実り始めた試みです。人の息吹、歴史の知恵を一つでもいいから、水平線の彼方に見透かせたらと、もう一度、教わるつもりです。



5.30 国際救援は今!
  色とりどりのツツジが野山をにぎわす頃となりました。皆様、いかがお過ごしでしょうか。

  88年から始まった海外での政治−思想弾圧事件がここ数年連続しており、この傾向は当面の10年の幅で考えても減じることはないだろうとの観測から、実際に救援に携わって来られた方々から話を伺い、ザックバランに交わる集いを計画しました。
  日本での救援は70年前後から30年近い蓄積があり、それなりの関係が救援連絡センタ−を中心に機能してきました。しかし、海外での被逮捕−裁判となると、その国や地域の人々との関係づくりとともに、異なる司法−文化への理解と対応が求められ、そうした中で、実に様々な試行錯誤−失敗などを避けられなかった歩みだったと思います。そろそろ、それぞれが独立独歩で重ねてきた救援体験をお互いの経験としていく時期に入ったのかもしれません。
  今回の集いはその試みの一つです。
  お忙しい中とは存じますが、ご参加をお待ちしております。

 日時; 5月30日  午後1時より
 場所; 大阪府立青少年会館2F特別会議室
 会費; 2千円 〜軽い軽食・飲料付きです〜

 報告予定   菊村憂さん救援会、城崎勉さん救援会、田中義三さん救援
レバノン2.15弾圧救援、その他
 集い世話人  柴田泰弘、沼地義孝、檜森孝雄、渡辺亜人
山中幸男(救援連絡センタ−)、津林邦夫(人民新聞
 連絡先     救援連絡センタ−
           03−3591−1301

Mr.T.Shirosaki
# 20924−016
U.S.P
POBox 26030
Beaumont.TEXAS
77720−6030
U.S.A


「風の人」8号(通巻15号) 99年3月3日発行
The Man in the Wind. Free Shirosaki!
風の人 タクラマカン砂漠の風はどんな味がするのだろうか

城崎さんと共に浮かぶ会・神奈川
郵便振替 00260・4・86033
東京都港区新橋2-8-16 石田ビル4F 救援連絡センター気付
川崎市幸区古川町66 関 博明
大和市大和東3-3-7-201(0462・61・8450) 檜森孝雄

無罪を求めた控訴が却下されました

 2月8日、控訴が却下されました。本当に残念な結果です。2月22日、在日の在る方から却下判決文を送っていただきましたので拙訳を届けます。2月24日に落手した手紙では、城崎さんは元気なようで、次の対応も考えているようです。

合衆国控訴法廷 1999年2月8日 被控訴人:合衆国 控訴人:城崎勉 主任判事:エドワーズ 巡回判事:ウイリアムス、ランドルフ

 判決
 コロンビア地裁扱いからの控訴について説明を受け検討した。当法廷は弁論の必要がないことで一致した。したがって、原判決は変更されない。
 被告は地裁が確定した何点かに論難している。だが地裁は被告の前科の証拠を認め選択の範囲内で判断した。被告は申し立てによればJRAの前身・赤軍派の資金獲得のため日本で71年、一連の強盗に関与した。有罪評決の証拠は彼がJRAの成員でJRAに同調し、86年に大使館を爆破した動機を適切に示した。地裁は不正な偏見に捉われずに証拠を扱った。偏見の危険は71年の罪と86年の爆破との相違を考慮し、裁判官の指示で最小にされた。
 地裁は、JRAダッカ・ハイジャックの要求で被告が77年に刑務所から釈放されたことを正当に認めた。証拠は被告がJRAに属しているか同調しているかを示した。これが政府による爆破動機を支えている。
 地裁はJRAの専門家の証言を正当に認めた。ファレルは諜報活動分野の専門家で彼の証言は陪審を助けた。JRAは工業先進国家、特に日本を非難し攻撃を企て推進してきた。JRAの考えと手口は被告が爆破に関与した動機を示すのに適切である。ファレルは陪審の判断に干渉しなかった。ファレルは特に86年の攻撃で日米を非難しているJRAの声明を挙げ、JRAによる論理的可能性を証言したのであってJRAが86年の攻撃に責任があるとは語っていない。地裁はファレル証言範囲を制限し、他証拠の関連の下で扱うよう陪審に示し、不正な偏見を充分に制した。
 地裁は広範に反論を組織したがゼッハの間違った予審証言への被告側反論を妨げ、偏見を抱かせたかもしれない。だが、それで合理的疑いが失するものではない。ゼッハは忘れっぽく、そのため地裁は弁護人の質問に答えるようゼッハに忠告しなくてはならなかったが政府は被告に強力な証拠を示した。爆破地点に残された2つの指紋である。
 地裁は証人が「テロリズム」を使用する場合、制限し、JRAに関連させることを許した。この語の引用で扇情的になったり根拠のないものになったりはせず、むしろ、文脈が解りやすく説明された。
 97年6月13日の地裁で示されたのだが当法廷は、96年の9月、合衆国への途中で被告がなした言明を地裁が正当に認めたことをも指摘しておく。
 当法廷は熟考した結果、被告の他の論点を却下する。

★日米共同の強制連行・有罪デッチ上げに抗議し、城崎さんが自由の身になるまで世界中の方々と共に歩みたいと願っています。風、届け!

Mr. T. Shirosaki
# 20924-016
U.S.P P.O. Box26030
Beaumont. Texas
77720-6030
U.S.A.


THE HEAD
Arlington County Facility
1435 N. Court House Road
Arlington, VA 22201
U.S.A.

6 July, 1998

Dear Sirs

I hope my two questions will reach to you.

I sent the collection of autographs by people in Japan on December 1997, to Mr. Shirosaki who had been in your house until March 1998.
Mr. Shirosaki was changed to new house, U.S.P. Beaumont in Texas. He told me that he could not get the collection of autographs yet, by his letter.
I am very sorry. Some people in Japan may be in the same heart.

I must make two questions to you.
First one is whether the collection of autographs had been delivered to your house or not.
The second is, if delivered, where it is.

I hope our hearts are still alive.

I am not good at English. If this letter style is impolite, I beg your pardon.

Yours Respectfully




July 23, 1998

Yamato-City, Kanagawa Pref.
Japan

Re: Tsutomu Shirosaki

Dear Mr●●●●

I received your letter regarding a package you mailed to Inmate Shirosaki. In checking with our Property Section, since Inmate Shirosaki was no longer in our Facility, this package was mailed back unopened as “Return to Sender”.

I am sorry you have not received the package yet and suggest you check with your local post office.

Yours truly,
●●●●●(手書きサイン)
Major Michael Pinson
Director of Corrections

平成10年8月15日
檜森孝雄様
大和郵便局
TEL 0462-61-5143

檜森様あて郵便物について

 檜森様よりお問い合わせのありました郵便物について8月より8月14日まで大和局に到着した外国からの小包を調査した結果、檜森様あて小包の到着の形跡はありませんでした。別添文書によりますと、1998年7月23日付になっております。いつどういう形でだされたのかわかりませんが、アメリカからだと船便で約30日〜40日、航空便で1週間の日数がかかりますのでこれから到着の可能性があります。お忙しい中、誠に恐れ入りますが、もうしばらくお待ちいただきますようお願い申上げます。


あとがき:

城崎さんへの有罪評決を弾劾します!
米日両政府共同の、ネパールからの米国本土への強制連行に抗議します!
控訴審―無罪獲得を、世界の人々と手を携え、共に求めます!

 96年9月23日、ネパールから城崎さんは米国本土へ強制連行されました。
 86
年の米国大使館・在ジャカルタへのロケット弾攻撃闘争の実行犯として起訴されていたのです。
 城崎さんの無実は、10月20日から3度に渡った証拠・証人調べ公判の全体が明らかにしました。連邦検察FBIの余りにもズサンなやり方に、日本からの派遣団からは、無罪を確信する。これで有罪なら米国の民主主義はとてつもないものだ、との感想も出ていました。

 城崎さんは元気で、控訴―無罪を戦う意向を明らかにしています。
 今回のデッチ上げ起訴―有罪評決は、日米両政府による、日本赤軍をダシにした見せしめに他なりません。城崎さんが日本赤軍のメンバーではないことは衆知の事実です。

 私たちは、全世界の人々と共に、城崎さんの無実を明らかにし、城崎さんの無罪釈放―自由意志による帰国を求めます。

 97年11月29日 東京 早稲田奉仕園にて


(※注:救援連絡センターの話では、
大江健三郎沖縄戦の本を出版社(岩波書店)経由で差し入れしたが、監獄で差し入れを拒否され、城崎はこの本を受け取れなかった。アメリカでは沖縄をテーマにした本はどうも差し入れ不許可にされるようで、岩波にも抗議するよう申し入れたが無視されたようである。城崎はこの件で訴訟を起こそうとした。以下の文書は檜森が監獄あてに送った抗議文と思われる。)

THE HEAD
United States Penitentiary
POBox 26030
Beaumont, Texas
U.S.A.

6 July, 1998

Dear Sirs

I hope my question will reach to you.

I sent the hard cover Japanese book on May 1998 to Mr. Shirosaki who in in your house, from the publishing company. The book was returned to the publishing company, and it is in my hands now.
I can not understand why the book was returned, because you did not indicate any reason to be returned but only “refuse”. I enclose the book package copy.
For reference.
The titles of Japanese book
“Tonari ni Dassou-hei ga ita jidai”
[The Days when Deserters were beside]
Published by:
“Sisou no Kagaku sha”
 [The Science of Thought Co.]

As you know, the native tongue of Mr.Shirosaki is Japanese. If the native tongue is limited, it means the death both of life and of thought. I hope Mr.Shirosaki is able alive in your land.

I want to continue to send Japanese books to Mr.Shirosaki. I must know your rules for sending Japanese books.
Would you please teach me the reason why the book “Tonari ni Dassou-hei ga ita jidai”, was refused?

I am not good at English. If this letter style is impolite, I beg your pardon.
Your Respectfully

以下は「Yahoo翻訳」による直訳。  大体の意味は理解できると思う。

宛先:
米国の刑務所
POBox 26030
ボーモント、テキサス
米国

1998年7月6日

拝啓

私は、私の質問があなたに届くことを望みます。

私は、ミスターに1998年5月にハードカバー日本語本を送られます。シロサキ、出版社から、お宅でで誰。本は出版社に返されました、そして、それは現在私の手です。
あなたが返される少しの理由も示さなくて、「拒絶するだけである」ので、私は本がなぜ返されたかについて、理解することができません。私は、本パッケージコピーを同封します。
参考のために。
日本語のタイトルは、「隣に脱走兵がいた時代」[Desertersがあったとき、Days]Publishedを予約します:「思想の科学」社

御存知の通り、Mr.Shirosakiの自国語は、日本です。自国語が制限されるならば、それは生命の、そして、思案の終わりを意味します。私は、Mr.Shirosakiがあなたの土地で生きて有能なことを望みます。

私は、Mr.Shirosaki.に日本の本を送り続けたいです私は、日本の本を送ることに対するあなたの規則を知っていなければなりません。
あなたが、どうか理由を私に教えます本「トナリni Dassou-hei ga ita jidai」、拒否されました?

私は、英語が得意でありません。この手紙スタイルが無礼であるならば、すみません。

草々

□B 有罪評決までの経過
<1971年       共産同・赤軍派のEM(連続金融機関襲撃闘争)で逮捕される。
   74年       懲役10年確定、下獄。
   77年       日本赤軍による日航機ハイジャック闘争で人質との交換釈放要求に呼応。
<1986年 5月14日 インドネシアジャカルタで米国大使館、ロケット砲撃される。
             城崎さん国際手配される。なお、日本政府も、日本大使館放火容疑で国際手配。
1990年 5月15日 米国、城崎さんをジャカルタ闘争の実行犯として起訴。
<1996年 9月19日 ネパ−ル・カトマンズで逮捕される。
       9月23日 米国本土へ軍用特別機で強制連行される。
<1996年12月    城崎から実家への手紙、拘置先、初めて明らかになる(拘置先は国家ぐるみで秘
             匿され、在米救援関係も「共に浮かぶ会」から初めて入手)。
 1997年 初春    弁護人タッカ−さん来日(確認事項は不明。城崎さんとの個人文通禁止を伝え聞
             く〜個人文通継続。)
       5月    検察側、ロ−マ、ニュ−デリ−闘争での追起訴をチラつかす。
             弁護側集団、無実主張の城崎さんに司法取引を勧誘。
       7月    公判延期。
       8月    司法取引に反対し、無実−無罪を求める「共に浮かぶ会・神奈川」設置。
             喜田村弁護士、応援を快諾。
      10月    タッカ−弁護士、喜田村弁護士と交通を開く意志のないことを表明。
             公判開始。
      11月13日 第一次評決、無罪・有罪の意見が分かれ、評決できず。
         14日 第二次評決、訴因全てに全員一致の有罪評決。
<1997年 1月26日 刑期判決(控訴意志表明提出期限日)。

 無罪獲得の控訴審体制発足へ、
カンパをよろしくお願いします

 現在、城崎さんは控訴の意向を明らかにしています。一審の経過をつぶさに検討していませんが、最も残念なのは、「被告」と弁護人との裁判方針を互いに創りだし、共有する試みが最後まで成立させ得なかった点にあると思っています。
 日本のみならず全世界で、冤罪がはびこり、重刑・死刑の「みせしめ」がまかり通っていますが、何かの縁で城崎さんと知り合う中で、少しは住みやすい地球上にしたいものだと思っております。お金がないと米国の裁判救援にはへっぴり腰になりがちですか、求められている気の遠くなるようなお金をどうにかしたいものだと思っています。どうぞ、よろしくお願いします。
 なお、「風の人」は29日集いの報告を創刊号として月刊とし、財政報告を毎号のせることになります。年間
購読費は高いですが2千円とさせてもらいたいと考えていますがどうでしょうか。

城崎さんへ励ましのお手紙を!  Mr.TSUTOMU SHIROSAKI
Arlington Courthouse Facility
                  1435 N. Courthouse Road
                   Arlington, VA 22201
                   U.S.A













米国ワシントン連邦地裁裁判断片集


(1998年10月21日発行)

ジョー・デ・ゲバルデヴィチの歌
南田草介(※注:関博明のペンネーム)
男ありけり
昔ありにし赤軍派、M作戦
判決の折「強盗赤軍に十年」とて報ぜられけり
またある時、阿部譲二なる傾き者のものせし読本に、
黒ぶち眼鏡、丸顔の生まじめな奴とて記されし事あり……。

ハイジャックで出て行ったんだよ。指名されて、刑期数年のこして。
次から次からパクられたんだよ、退かない奴は。退くに退かれぬ、行くにも行けぬ。パクられる。残った奴らはつぶされる。ぺしゃんこ。

再建論議あちこち、あれこれ。
けれど みんな夢のまた夢
あちこちケンカ 四部五裂
それが「壊滅」

出て行ったんだよ、指名されて
アラブの彼の地で合わなくて
意見? 気質?
ケンカ度々、けれど縁は切れなくて
そしてこうして20年

流れ、流れて米帝監獄
今度は判決30年
笑っちゃう程 数奇な人生
クソがつく程 マジメな男 ありけり

お〜い城崎 どこへ行く!

ジョー・デ・ゲバルデヴィチ

生きてりゃ会えるさ、こっち側
死んだら会えるさ、あっち側



米国ワシントン連邦地裁裁判断片集
米日両政府合作による城崎さんへの30年を弾劾する!

城崎さんと共に浮かぶ会・神奈川/東京都港区新橋2-8-16石田ビル4F 救護連絡センター気付/川崎市幸区古川町66 関博明/大和市大和東3-3-7-201檜森孝雄/郵便振替00260-4-86033/1998年10月21日/値段¥百縁
THE MAN IN THE WIND FREE! SHIROSAKI!

遅れました、一審断片集

 間もなく控訴審の行方が定まろうとしているのに、一審の断片をようやくまとめいている姿を俯瞰してみると、歩んでいるのか退いているのかという疑問はどうでもよくなって、浮かんでいるんだなと妙に納得できている。
 初めのころ「関わる―肉接」イメージがどうこうあり、その後「浮かぶ―沈む」どうこうがあった。喜怒哀楽、希望―絶望、何でもごっちゃが世の中で、水でも岩でも空でも何でも、その中に浮かんでみようかいというのがあった。質量1億の関係の中でも、ボチボチ浮かんでみようかいと。

 浮かぶ会と城崎さんの弁護人・タッカーさんとは交通が一度も開けず、結局、公判資料は城崎さんから送ってもらっていた陪審記録の一部に止まった。判決公判での彼我の弁護は資料で当れず、お報せは断片も断片、まとめた本人も?の只中に浮かぶ始末となっている。ただ、米国の司法―裁判を窺い、城崎さんの無実を確信することはできる。城崎さんの方は、夏に入ってから、一審資料の一部がタッカーさんから送られてき、控訴審を考え進めているとの報せがあった。弁護人との交通がどうなっているのかも定かでないが、見守り続けたい。彼の健康を願う。





米国ワシントン連邦地裁裁判断片集





(1998年10月21日発行)






――目 次――
① 判決特集『風の人』№4 2
② 11・29 喜田村さんの講演 3
③ '98,10〜 陪審公判記録(抜粋) 7
④ 弁護人選任メモ/アーリントン拘置所接見規則 21
⑤ 宙に浮いた寄せ書き探査記録 22
⑥ 11・29 集会アピール/書籍返送はなぜ? 23



米国の陪審制度と城崎さんの裁判
喜田村 洋一(弁護士)
【1997年11月29日「城崎さんと共に浮かぶ夕べ」での講演】
――表題は浮かぶ会で付けました――
 今日は、城崎さんの裁判の判決が出されたことを受けての集まりですが、私からは、お集まりの皆さんに、日本と米国の刑事裁判の違いというものをお話させていただきたいと思います。私は、日本で弁護士になって20年ほどになりますが、その間に米国に留学して1983年にニューヨーク州の弁護士登録もいたしました。ですから、米国の刑事裁判についてある程度のことは判りますが、もちろん弁護人として米国で刑事法廷に立ったり刑事事件を扱ったりしたことはありませんので、実務経験に基づくお話というのはできません。そのつもりでお聞きいただければと思います。

= 大陪審 =
 米国では、重罪事件の場合には、大陪審という制度があります。テレビや映画でよく見る陪審は、公開の法廷で審理がされるときにその場にいて証言などを聞いたりしますが、あれは、小陪審と呼ばれるもので、この大陪審とは違います。大陪審は、普通の陪審と同じように一般市民から選ばれますが、人数は小陪審が通常12名あるのに比べ、もっと多く23名くらいが普通だと思います(「大」というのも、この数からきています)。そして、大陪審は、検察官から提出された証拠(物証や証人の証言)を見て、起訴できるだけの証拠があるかどうかを判断します。これは、検察官が証拠もないところで勝手に起訴をできるようでは、たとえ後に裁判で無罪になったとしても、大へんな労力が必要となり、社会生活を送る上でも大きな不便がありますので、不十分な証拠しかない起訴はさせないという目的のために設けられた制度です。
 しかし、現実を見ると、大陪審はこのような抑制的な機能を果たしているとはとても言えません。大陪審は、殆どの場合、検察官の提出した証拠は起訴するに十分であると判断して、検察官の請求をフリーパスで認めてしまうのです。しかも、大陪審に提出できる証拠は、公判廷で証拠能力が認められないようなものも含まれるとされているので、起訴すらできないような場合というのとは希有の場合ということになります。
 城崎さんの場合も、大陪審が「起訴しうるだけの証拠がある」と判断し、起訴状を提出しました。後でもお話しますが、起訴された事件の中で城崎さんがどのような行為をしたのかとか、犯人といつどのような謀議をしたのかということが全く判らない起訴ですから、日本ではいくら検察官でも通常事件なら起訴は躊躇するのではないかというような証拠しかなかったわけですが、米国の大陪審は起訴に踏み切ったわけです・もっとも起訴したといっても、実際には検察官の判断を追認したというだけだというのは、上にお話したとおりです。

= 司法取引 =
 さて、起訴されると、被告人は起訴された起訴について有罪を認めるか、無罪を主張するかを決定しなければなりません。この関係で重要なのは、米国の刑事司法手続では、日本にはない「司法取引」という制度があるということです。これは、被告人が有罪の答弁をする代わりに、検察官の方ではより軽い罪で起訴するという制度です。たとえば、実際にはかねてから計画した殺人であっても、計画があったという部分を起訴の対象にしないで、その場で激情的に犯した殺人であるとしたり、殺人の故意がなく、日本でいうと過失致死犯として起訴したりということがあります。
 このように軽い罪で起訴されれば、有罪となっても宣告される刑は軽くなりますし、判決での刑も検察官の勧める刑に従う場合が多いとされていますから、検察官と量刑についても合意に達していれば、実際の刑についても予測がたちます。ですから、無罪を争いたい被告人であっても、万一有罪になった場合には重刑が課せられることを危惧して、司法取引に応じることもあるのです。
 これに対して、検察官の方では、本来の事実で起訴すれば、被告人が争い、このために無罪となる可能性が出てきます。また、後で述べるように被告人には陪審審理を受ける権利がありますが、陪審の場合には、時間が長くかかりますし、費用もかかります。これは刑事事件の数が極めて多い米国では深刻な問題で、仮に重罪事件の半数の被告人が無罪主張をして、正式審理を求めるならば、米国の刑事裁判制度は崩壊すると言われているほどです。したがって、検察官にとっては、刑期が短くなるという結果は生じても、司法取引によって被告人から有罪答弁を得て、事件を迅速に処理するというメリットがあるわけです。
 このように、司法取引は、被告人と検察官の双方にとってある程度メリットがある制度ですから、米国では殆どの事件で試みられます。城崎さんの事件でも、司法取引の申し出があったように聞いていますが、結論としては、城崎さんは司法取引に応じませんでした。司法取引に応じるということは有罪を認めるということであり、このような方針を採ることが正しいかどうかということは、城崎さんの場合には特に問題があったろうと想像します。さらに、城崎さんのような事件では、検察官と司法取引に応じたとしても、量刑が軽くなるとは限りません。このことは、米国で同じように裁判になったKさんの事件のことを考えれば明らかだろうと思います。
 実際にどのような検討を経ての結論かは明確には判りませんが、いずれにせよ、城崎さんは司法取引を行いませんでした。

= 陪審 =
 米国では、無罪を主張する刑事事件の被告人には陪審裁判を受ける権利があります。城崎さんは、無罪を主張して陪審審理を選択しました。ご承知のように、陪審は、一般市民の中から無作為に選出される12名(もっと少ない場合もあります)で構成され、有罪か無罪かを決定します。
 ご注意いただきたいのは、日本の刑事事件とは違って、米国の刑事裁判では、有罪か無罪かを決める段階と、有罪の場合にどのような刑とするかの段階とが、はっきり区別されているということです。日本では、この2つの段階が一緒にされ、しかも1つの手続ですから、当然同じ裁判官が両方の証拠を聞くわけです。しかし、これですと、本当は無罪を主張するのだけれど、有罪になった場合に備えて、「実は被告人は犯行を犯すにはこんな事情があった」とか、「被告人はこのような性格を持ち、仕事も家庭も安定しているから、執行猶予にして欲しい」というような主張をすると、無罪の主張をすること自体が矛盾するような感じになってしまいます。
 米国の制度では、このようなことはありません。まず、有罪か無罪かを決めるのは陪審です。陪審が有罪と認めると、その後の量刑手続には陪審は関与しません。実際の量刑を決めるのは裁判官です。裁判官は、被告人についての調査報告書を読み、検察官と弁護人双方から意見を聞いて、刑を宣告するのです。
 陪審審理による違いのもう1つは、判決の理由の有無です。日本の刑事裁判では、刑事判決には理由をつけなければならないとされています。裁判官が、いろいろな証拠をどのように評価して、どのような事実を認定し、これがどのような犯罪を構成するとしたのかが、判決書を読めば判るようになっているのが本来の姿です(そうでない判決もいろいろ有りますが)。ところが、陪審員は法律の素人ですから、いろいろな証拠から事実を認定するということはできても、それを文章にして表現するということは期待できません。陪審に対しては、「この被告人は起訴された……の犯罪について有罪か無罪か」という質問しか許されません。その答えも「被告人は……の犯罪について有罪(又は無罪)」というだけです。日本の刑事判決のように、「被告人は、○月△日に、〜において、……し、よって、……の罪を犯した」というような細かい事実認定もありませんし、なぜ起訴事実を犯したと認めたかという理由の説明もありません。
 陪審がどのようにしてその結論に達したかについては、伝統的には「評議の秘密」として探ってはいけないことになっていました。ですから、陪審審理は、ブラックボックスのようなもので、なぜ有罪(無罪)という結論が出たかは判らないのです。ということは、検察官にとっても、弁護人にとっても予測がつけにくいということです。
 陪審審理のよい点は、一般市民の普通の感覚で裁いてもらうことが期待できるということです。特に、政治裁判と言われる事件では、裁判官は伝統的に検察官の肩を持つことが多いと思われますが、一般市民は常識に従って、偏見のない見方をしてくれると期待できるのです。
 これに対し、陪審倫理の悪い点とされるのは、たとえばメディアで大々的に取り上げられ検察よりの見方しか報道されていない事件や、市民の間に広く偏見が持たれている事件では、市民がそれに影響されてしまうという危険性があります。
 いずれにせよ、城崎さんは、陪審審理を選択しましたが、上記のようなそれぞれの危険性を考えると、正しい選択だったのではないかと考えています。

= 証拠構造 =
 大陪審によって起訴された事件は、形式的には4つありますが、結局はジャカルタの米国大使館に対する攻撃が、①殺人未遂と、②建造物損壊というものです。
 その証拠として提出されたのは、実行犯と目される人物に城崎さんが似ているというホテル従業員の証言と、犯行現場と目されるホテルの部屋に城崎さんのものとされる指紋があったということだけです。先程も言いましたように、被告人の城崎さんが何をしたとか、誰とどのような共謀をしたという証拠は全くありません。
 しかし、陪審はこれだけの証拠で城崎さんが有罪であると認定しました。確かに、指紋は仮にそれが城崎さんのものであると仮定すれば(証拠そのものを見ていないので、この点はわかりません)城崎さんがそこに居たという認定はできるでしょうが、それ以上に、城崎さんが大使館を攻撃したということまでは認定できないというのが、日本的な常識と思いますが、米国ではそうではありませんでした。これは、1つには、陪審が細かい証拠認定をしなくとも、大雑把なとらえ方をして、「被告人がやったに違いない」と判断したためだろうと思います。そして、そのような見方をさせるようになった根底は、検察官の「被告人城崎は赤軍派に属するテロリストである」という宣伝であることは事実です。ですから、この面では、陪審制の悪い側面が出たと言えるかもしれません。
 ただ、ここで指摘しておかなければならないのは、被告人の発言についての日本と米国の差です。日本では、刑事事件の被告人は供述拒否権があり、発言してもしなくても、また発言する場合でも、弁護人の質問には答えるが、検察官の質問には答えないとか、この質問には答えるが、別の質問には答えないということが全く自由です。また、被告人は宣誓をしませんから、偽証罪に問われることもありません。
 ところが、米国では、刑事被告人は、供述拒否権はありますが、供述をする場合には宣誓をして証人として行ないます。したがって、この場合には、検察官の質問にも答えなければなりませんし、すべての質問に答えなければなりません。証言を拒否すれば裁判所侮辱罪に問われる可能性があり、証言が虚偽であれば偽証罪に問われる可能性があります。しかも、被告人が証人席に立った場合に、検察官が最も頻繁に利用するテクニックは、被告人に前科があるという事実を陪審に知らせることです。前科があった場合には、一般市民の陪審は、被告人の供述を信用しない例が多いのです。
 城崎さんの場合に、仮に城崎さんが証言台に立つと、検察官は、日本で刑事裁判を受け有罪になったこと、そのときに共産同赤軍派と呼ばれる党派に属していたこと、日本赤軍のハイジャック闘争によって刑務所から出たことなどをあらいざらい、細かく問いただし、陪審に判らせようとするでしょう。この場合に、陪審がなお無罪という評決をするかどうかは疑わしいと思います。
 実際には、城崎さんは証言しませんでした。この選択も、上で述べたような状況を考えると正しいものだったと思います。しかし、陪審は、「指紋があったということは、その部屋にいたということだ。何も事件に関わりがなければ、なぜその部屋にいたかということを明らかにするだろう。しかし、それを言わないのは、犯人だからではないか」という推測をした可能性は消せません(もっとも、このような危険性があっても、証言しなかったという選択が正しいという判断は変わりません)。

= 量刑 =
 先程も述べましたように、陪審が決めるのは有罪無罪だけで、量刑は裁判官がいろいろの資料を見て決定します。この量刑公判は有罪判決があってから1ヵ月程です。その間に、検察官と弁護人の双方が資料を提出するのです。
 しかし、城崎さんの場合は、量刑公判は、11月14日の有罪判決から約2ヵ月先の1月26日になりました。これは、裁判官が、この事件は通常の事件とは違うと考え、様々の資料が提出されることを予測したためと思います。実際の刑期はここで決められるわけですし、刑期は短いにこしたことはないわけですから、実際には、検察官と弁護人の間で様々な取引が行なわれていることが多いようです。この事件でも、極端なことを言えば、検察官は赤軍の一員であることを認めれば、そして何らかの情報を提供すれば、軽い刑を求めるとか、中途釈放を認めるとかいった働きかけをしてこないとも限りません。これも一種の司法取引なのです。原則を守りながら、しかし、有罪判決が出たという状況を踏まえて、これから量刑判決までをどのようにしていくかということは、極めて重要なことです。

= 控訴 =
 刑事事件の控訴も日本と米国では大きな違いがあります。最も大きな差の1つは、一審で有罪になった場合の控訴理由として、日本では事実誤認が認められていますが、米国では事実誤認が控訴理由になっていないのです。これは、先程述べた陪審制と関係があります。日本では刑事判決書に詳しい事実認定があり、証拠評価が記載されていますから、「一審判決は……の点で事実を誤認している」という主張が可能になります。
 これに対し、米国では、一審判決「被告人は……で有罪」というだけですから、どの点で事実を誤認したのかということが、そもそもわからないのです。事実を認定していないのだから、事実誤認がないと言ってもよいと思います。
 そうすると米国での控訴理由は何かということになりますが、これは控訴手続に法律違反があったということに限られます。たとえば、本件では、城崎さんのものとされる指紋が問題になっていますが、その指紋が付いていたとされるビール缶の採取が違法であれば、そのような違法な証拠を公判に提出することはできなかったわけですが、その裁判は違法ということになります。これが認められれば、一審判決は破棄になり、審理が地裁でやり直されます。そうなると、ジャカルタからまた証人を呼んでこなければならず、検察官は有罪立証がきわめて困難になるでしょう(もともと古い事件だった本件では、証人の記憶はますます薄れてしまいます)。
 実際にそうなっていくかは別問題ですが、いずれにせよ、米国の控訴審は法律審であって、陪審はなく、事実認定も新たに行いません。弁護人が控訴の理由書を提出すると、検察官が答弁書を書き、これに対して弁護人が再反論書を書くと、書面の手続は終わりになります。控訴審の裁判官は、記録と控訴理由書等を読んで、必要があると思えば弁論を書き、双方から直接意見を聞きます。そうでなければ、書面審理だけで結論を下すことになり、この場合には地裁の判決が維持される可能性が極めて大きくなります。ですから、控訴審の焦点は、高裁で弁論が開かれるかどうかということになります。これが判明するのは1年近くかかると思われますから、98年の終盤ということになるでしょう。
 
 米国の刑事裁判手続について、日本と比較しながら、いくつかの特徴をお話しました。城崎さんの件については、私も関心を持って注視していきたいと考えています。
[了]


ワシントン連邦地裁 陪審公判記録(抜粋)
1997年10月20日〜11月13日
< >内は記録ページを示す
[97年10月〜11月の陪審公判記録の一部から抜粋掲載します。一部とは、頁数から推測するに、全体の20分の1以下でしょう。和訳は日本公教育制度で中学生以上の英語能力を持つ方々によるが、米法律知識に通じてはいません。危なっかしい千鳥足、よろしく斟酌をお願いするものです。]

判事(ロバートソン):<626>……。陪審員の皆さん、目撃証言や資料が事実であるかどうかは皆さんが判断して下さい。当事件を通して皆さんが留意すべき刑法上の基本が3点あります。
 第一に、被告は有罪となるまで無罪とみなされる。政府による起訴は起訴でしかなく、被告の有罪を証明してはいない。告発である。
 第二に、当事件の立証は政府によってなされねばならない。有罪を立証する義務は政府にある。
 すでに何度も述べてきたように、被告が立証しなければならないことは何もない。
<627>そして第三に、政府は適度な疑い以上に有罪を立証しなくてはならない。全ての疑いというのではなく適度な疑い以上ということである。当事件の終りに、皆さんへは一つ、指示を告げたい。
 すでに話してきたし――これからも話すだろうが、皆さんは当事件を誰とも話してはならないし、話しかけようとさせてもならない。当事件を扱う報道がいくつか出るだろうが、それらに注意を払ったり、見聞きしてはならない。
 当法廷で聞いたことだけが事実である。皆さんを分けたり、ホテルへ送ろうとは思わない。皆さんはこの簡単な指示に耐えられると信じている。陪審が法廷での事実にのみ学ぶことは、被告と公判の双方のために非常に大切である。
 ここから明らかになろうが、皆さんは、旧い新聞を読んだり、歴史をひもといたり、調べたり、そういうことをしてはならない。証拠が全て出されるまで、当事件の事実を調査してはならないし、心を大きく持ち、いかなる主張をしてもならない。
 さて、当事件では1、2のことがらで特殊性がある。A;当件の多くの目撃証人は、この国で宣誓するのとは違ったやり方で宣誓する慣習を持つ。<628>米国人には通常のように法廷代理人によってなされるが、インドネシア人と日本の宣誓には私―判事が執り行う。彼らの宗教に従い、彼らが慣れているやり方で行なうためである。
 第二に、公判で英語以外が使用された場合は、公的法廷通訳を介してなされたものだけが証拠となる。何人かは英語でない言語を知っているかもしれないが、全ての陪審員が同一の証拠を考慮することが大切なので、英訳証拠を尊重しなくてはならない。英語でない言語のいかなる内容も認めてはならない。
 しかし、翻訳が本格的に違っているとすれば法廷に注意されたい。ただし、休憩時に。進行を妨げてはならない。休憩時に。
 指摘があれば元にもどり、証拠や映しを再考し、解決する。そうしたことが生じないよう期待するが、重大な翻訳が指摘された場合には、ということである。
<629>これらが断っておきたい全てである。弁護団の用意ができているなら始めよう。ミスター・ヴァルダー、政府側の意見陳述を始めてよろしい。


==政府側冒頭陳述
検事(ヴァルダー):ありがとうございます、判事。
 法廷、弁護団、そして皆さん、お早ようございます。昨日、本件を興味あるものにすると私が約束したと判事が判事席のあなた方に語られたが、それは警句だと思っている。もちろん最善を尽くすが、これから2週にわたって座り続けることになりましょう。私はそれほど大変な仕事になるとは思っていません。
 本件が非常に興味深いことを皆さんは知るでしょう。通常でない場所、通常でないできごと。多くのことがらが文化的、歴史的、その他で異なっている。
 判事が先に述べたように、冒頭陳述とは、本件の立証概要を述べることです。公判を通して解りやすく皆さんを案内する早分り道路地図であり、全ての目撃証言と証拠物件が適合している概観を皆さんに示すことにあります。本件はいったい、どんなものか? 1986年5月14日の午前11時頃、インドネシアジャカルタにあるUS大使館が爆撃された事件です。被告T・Sが大使館の敷地へ2発のロケット弾を撃ち込んだことに責任があることを証拠は示すでしょう。ロケット弾は<630>モルタル弾とも呼ばれ、約1ポンド[約453.6グラム]のトリニトルトルエン片――いわゆるTNTが込められていました。直径10〜20フィート[約3〜6メートル]の破壊能力をもつ火球と、巨大な規模の衝撃波を造り出すには十分なTNTでした。もし爆発したら半径10フィートは何もなくなったでしょう。
 ロケット弾には約1ポンドのTNTが仕込まれていただけではなく、被告は各々に11ケのボルトとナットを含め(ボルトにナットを巻きつけ)、ゴルフボールの2〜3倍の大きさにしていた。このような致死的物品を仕込ませた爆弾製造者の唯一の意図が、巨大な爆発で推進され高速で飛ばされた時に資産損害を起し、職員に死傷者を出す目的にあったことは証言から明らかになりましょう。
 本件はまた、米国大使館への攻撃の1時間くらいのあいだに11時半ごろ、2つの同時爆弾攻撃が不随していた。日本大使館へ発射された2つのロケット弾は爆発せず、他方のロケット弾は米国大使館に届かなかった。
<631>正午にカナダ大使館の外で車爆弾が爆発し、付近の人々が負傷し、約7台の車が被害を受け、爆弾を積んでいた車は壊れた。
 証言で皆さんに示されるでしょうが、本件での事実は、日本大使館に2発のロケット弾が発射された部屋をミスター・城崎は借り、また、日本……失礼、カナダ大使館に置かれた車爆弾の車も彼が借りたことである。
 被告に責任があるのは、滞在したジャカルタのホテルと国営レンタカー会社で、実行者として本件の事実に関与していると特定されたことからも、証言で示していくだろう。彼は25人位の非常に小さなグループの1員で、米・日・加、その他の国々の国益攻撃を目的とした、60年代をベースとする共産同・赤軍派から1970年に分派した自称・日本赤軍、被告がその構成員であることを証言で立証するだろう。
<632>被告がこの組織の一員であり、各々の爆弾に関与した証言を考慮すれば、彼が爆弾に責任あると結論づける証拠になろう。
 さて、今日、私たちはどうしてここにいるのか?
 大陪審が起訴を回してきたからである。起訴について簡単に述べさせて欲しい。判事が先に述べたように、たぶん明らかにはしなかった――明確には犯罪を挙げなかったと思う――大陪審の起訴は以下である。
 第一に、18US113(a)違反としての、殺人を意図した攻撃の罪。
 第二に、XVⅢUS1363としての、USの特別海洋、及び領土権である建物と資産とを破壊する試みの罪。
 第三に、US1116違反としての、国際的に保護される人員への殺人の試みの罪。
 第四に、18US112(a)違反としての、国際的に保護される人員の公的諸財産への攻撃の罪。
<633>4項目の起訴である。
 判事が述べたように起訴状自体は証拠ではなく、被告には何を防衛しなくてはならないかを示し、他方、我々、政府側には、彼を犯罪責任で拘束し、起訴罪状で彼を罰するために、合理的疑い以上の立証責任がある。
 起訴条項とその重要部分を読み上げるので、証拠調べと判事接辞の後にあなた方の評決がなされるのだが、本件での起訴条項を正確に知っていただきたい。
 起訴状のタイトルは、USA 対 城崎勉であり、以下は次である。
 大陪審は起訴する。第一に、インドネシアジャカルタで1986年5月14日頃、USの特別管理にあるジャカルタ米国大使館へ、ヒロフミ・イシダ及びジュンスケ・キクチとして知られている被告ツトム・シロサキは、US大使館敷地内の人々を殺す目的で2発のロケット弾を発射させた。これは18US113(a)を犯している。
 第二に、同日、同所で、ヒロフミ・イシダ及びシュンスケ・キクチとして知られる被告シロサキは大使館の建物を傷つけるため2発のロケット弾を発射させた。<634>これは18US1363を犯している。
 第三に、同日、同所で、国際法で保護されているUS大使館員を殺害するため、あらかじめ計画された殺意のもとに2発のロケット弾を発射させた。これは18US1116を犯している。
 第四に、同日、同所で、ミスター・シロサキはUS政府職員の公的前記物件を攻撃するため2発のロケット弾を発射した。これは18US112(a)を犯している。
 起訴状にはもちろん、大陪審員長とコロンビア州検事長のサインがある。
 起訴状の各項を我々は立証していく。
<635>証拠調べに入る前に幾つかの技術上の疑問がある。この事件がなぜワシントンDCで扱われるのか? 裁判地規定のXVⅢUS3238では、US法違反が管轄外及び境界外でなされた場合、違反者が最終的に居住していた地方で裁判がなされると基本的に定めている。明らかにこの条項は適用されていない。最終居住地が知られていない場合には、コロンビア地方で起訴が扱われる。被告はUSに居住したことがなく、起訴はワシントンDCで扱われた。要するに、変な言い回しだが、ここが正しい場所だ。
 さて、起訴状の条項をどう立証しようとしているのか? 非常に単純であって、1986年の4月の終りにもどり、これからの数週間、5月14日までにインドネシアジャカルタで起きたことがらを挙げる。その後、インドネシア、日本当局及び、最後にFBIの捜査を示す。この立証を通して、<636>約25名のインドネシア人の目撃証言がなされるが、そのほとんどは英語を話さない。日本人証言者は4名だが、一人だけが英語を話す[高橋正一]。
 シンガポール在住の前FBI員、パキスタンイスラマバードに赴任していた財務省役人、JRA専門家、そして犯罪捜査・研究に携わり本件の捜査にあたった約10名のFBI係官。
 判事、ここに小さな2つの地図があります。陪審に見せるため判事へ提出してよろしいでしょうか。

判事:よろしい。

検事:皆さん、ご承知のように事件はジャカルタで起きました。ジャカルタは世界の反対側にあり、地球をまっすぐ行くとアジアの東に出、シンガポールの南東、日本の南西、オーストラリアの北西にインドネシアがあります。約800の島々があり……
[以下、略]

判事(ロバートソン):……そして政府が有罪を証明するまで、または証明が終了するまでは、被告は無罪と推定されます。立証責任は政府が負うものなので、政府側には最初と最後に弁論する優先権があります。そこで、政府が弁論を行い、次に弁護人が弁論を行い、それから政府が最終弁論を行なう規則です。この順序で裁判を進めましょ