『風の人』復刻版1


風の人
(復刻版)

  1. 公判記録集+手記


2009年3月17日










責任編集   政治犯に対する不当弾圧に反対する会

復刻にあたって
本書は、1996年9月19日にネパールのカトマンズで拘束され、9月22日にFBIにより米軍機に乗せられアメリカ・ワシントンに拉致され、裁判にかけられて禁固30年の宣告を受けた城崎勉君を救援するために結成された「城崎君とともに浮かぶ会」の発行した救援パンフレット「風の人」を復刻したものです。
又、「風の人」とは別に発行された「公判記録断片集」や掲載されていなかった城崎君の手記も含めて掲載・復刻しました。

これらのパンフを中心になって発行し続けたのは、檜森孝雄と関博明の両君です。
両君とも既に亡くなられました。
檜森孝雄君は2002年3月30日、東京・日比谷公園で抗議の焼身自殺を遂げました。
彼は、72年5月30日の3戦士によるリッダ空港襲撃闘争の同志であり、日本赤軍の逮捕者の救援や城崎君の救援活動などを献身的に続けていました。
関博明君は、共産主義者同盟赤軍派の中央軍兵士としてM作戦に参加・逮捕され服役しましたが、彼もまた、かっての赤軍派同志であった城崎君の救援を檜森君らと献身的に担いました。
本書には、南田草介というペンネームで作った「ジョー・デ・ゲバルトヴィッチ」という詩が収められています。
関博明君も、2005年6月、ガンのため永眠されました。
「お〜い城崎 どこへ行く!

ジョー・デ・ゲバルデヴィチ

生きてりゃ会えるさ、こっち側
死んだら会えるさ、あっち側  」

と、うたった関博明は、笑って、あっちで城崎君を待っているのかもしれません。がそれは、城崎君が米帝監獄の中でくたばってあっちへ行くことを決して望んではいないでしょう。関君には、城崎君が解放されて寿命尽きるまで気長に待ってもらうしかないと思います。

城崎君は、98年2月ワシントン連邦地裁1審で禁固30年の宣告を受け、控訴しましたが、
2審は実質審理もなく控訴棄却し、刑が確定しました。
当初、テキサス州の監獄で服役していましたが、現在はインディアナ州テラホのCMUという政治犯ばかり集めた(イスラム政治犯が大多数)収容施設で服役していますが、連邦刑務所は懲役はない禁固刑ですので、日本の刑務所よりはある意味ではましな状態ともいえます。しかし、彼は服役後、白内障を患い、又近年緑内障も重なって左目がほとんど失明状態になり、治療を要求していましたが、当局は予算不足を理由に無視していました。救援連絡センターからの連絡でこのような状態を知った日本での動きで、シカゴ領事館の林領事が面会に行ったりしたこともあって、最近、突然治療に連れて行かれ、かなり改善したとの連絡がありました。

檜森・関両君が亡くなられた後、日本での救援活動は、唯一、救援連絡センターとの交通(文通)だけが細々と続いている状態だったようです。
このような状況を私達はつい最近知ることになり、城崎君を知るブンドや旧赤軍派日本赤軍関係者などを中心として救援活動が再開するようになりました。
雑誌「情況」や「人民新聞」、救援連絡センターの「救援ニュース」などで城崎君救援の声が載るようになり、2009年2月8日に京都で開かれた「政治犯対する不当弾圧に反対する会」でも、城崎君の救援が取り上げられました。

この復刻の作業を行なう過程で、私達は、城崎君のネパールでの拘束とFBIによる拉致事件の詳細を改めて知り、衝撃を受けました。KCIAによる金大中拉致事件とどこが異なるのか?と。FBIが86年のジャカルタでの米・日・カナダ大使館砲撃・攻撃事件の件でアメリカに連行して裁判にかけることは国際法的に許されるのか?もし、これが東京で発生した事件であったなら、日本で裁判をするべきであり、であれば、本来なら事件発生地のインドネシアで裁判すべき事件です。東京の事件でアメリカが強制的に「被疑者」をアメリカに連行したら、日本政府は金大中拉致事件のときのように主権侵害だと当然抗議するでしょう。しかし、インドネシアも日本政府も城崎君をアメリカへ連行することに抗議はせず、アメリカによる拉致を黙認もしくは容認或いは協力したと思われます。というのは、連邦地裁での公判にインドネシア警察も日本の警視庁も担当者を派遣し、積極的に協力しているからです。警視庁からは、高橋という警部が証人として出廷しましたが、結局証拠としては採用されませんでした。更に、ジャカルタの犯行現場と見なされるホテルから数日後に採取されたと言われる缶ビールについていたとされる指紋についても、日本の警察が提供して捏造した疑いが濃厚にあります。なぜ、当日の現場検証で採取されず、現場写真にも写っていなかった缶ビールが何日かたってから突然出てくるのか?ホテルの部屋から缶ビールも含めて12個もの指紋が出てきたとされているが、もし真犯人であればそんなドジをするだろうか?どう考えても、犯行を行なうとすれば、そんなドジなことは素人だって犯さないだろうヘマです。まことに眉唾ものの「証拠」ばかりなのです。指紋の上塗りなど、簡単な技術で、最近では、指に指紋のフィルムを貼り付けて入国する手口が明るみにでましたが、FBIの力を持ってすればいとも簡単に行なえる捏造工作です。
又、ホテルやレンタカー会社で目撃されている「犯人」と見られる「菊池俊介」と「石田博文」と名乗る人物の特徴は、城崎勉とは似ても似つかぬ人相・風体で身長も全く違います。これらの目撃証言は、ことごとく城崎君の無実を証明する材料のように思えるのですが、陪審裁判で14人の陪審員は、有罪を評決しました。ただ評決は1回ではまとまらず何回も評議して最終的に全員一致の評決になったと聞きます。
国選弁護人のタッカー弁護士の動きについても、この記録を読むと、はじめから犯人視して司法取引をもちかけたり、ジャカルタまで出張しながら、犯行現場の疑惑をろくに調べもしていない、日本の支援者とも一切交通をとらないなど、非常に首をかしげるところが多いと感じます。城崎君がタッカー弁護士を十分には信用していないのは当然と思われます。しかも、全て英語で進行しますので、城崎君の公判が十分なサポートもなく苦労したことがうかがわれます。私達でさえ、英文の資料についてはまだほとんど解明できてさえいません。
犯行声明を出した、「反帝国主義国際旅団」(AIIB)という組織は未だに正体不明の組織ですが、米・日・インドネシア・イタリアの捜査当局は、AIIBは日本赤軍であると「断定」しました。
ローマ・ナポリでも爆破事件がおき、この組織の名で犯行声明が出ていますが、、日本赤軍重信房子と奥平純三、更に城崎勉が犯人と断定され、国際指名手配されました。ここでも指紋が検出されたと言います。
しかし、日本赤軍はAIIBではないと明確に否定し、城崎君についても日本赤軍のメンバーではないと声明しています。犯行の手口・犯行声明などについて、見る人が見れば日本赤軍とは似ても似つかない組織であることは一目瞭然ですが、FBIが証人として喚問したファレルという情報専門家(?)はAIIB=JRAと「証言」しました。ハワイ大学教授で「日本赤軍派」などを著しているパトリシア・スタインホフ教授は、弁護側証人として出廷し、AIIB=JRAという図式を明確に否定しています。(彼女は岡本公三にもリッダの直後に面会している。)
82年にイスラエル軍レバノンに侵攻した時、日本赤軍メンバーと和光晴生や城崎勉など日本赤軍メンバーではない人もパレスチナ義勇軍として参加してイスラエル軍と戦いました。ベイルートから撤退した時も彼等はパレスチナ解放組織(PFLP)と行動をともにし、一時チュニスに避難したようです。その後、イスラエル軍レバノンで厳しい抵抗にあって、撤退を余儀なくされ、84年ベルートは解放され、パレスチナ人はレバノンに帰還しました。その中に日本赤軍も当然含まれていました。このような状況下で86年ジャカルタ事件、87年ローマ事件、88年ナポリ事件が起こります。日本赤軍がこのような作戦を行なう必然性も蓋然性も全く感じられません。どう考えても、このような作戦を行なう状況は当時の日本赤軍にはなかったとしか考えられません。
ただ、当時はアメリカはクリントン政権の時代でしたが、反テロのキャンペーンをはり、日本赤軍やIRAなど世界の反帝闘争の組織を「テロ組織」と指定した時期であり、これら「テロ組織」を壊滅する作戦を全世界的な規模で推し進めていました。つまり、日本赤軍の側にはジャカルタ事件などを起こす必要も必然性もなかったにしても、アメリカや日・欧などの諸国は反テロ組織の作戦を進める必要があり、例えデッチアゲであれ、何であれ、とにかく手当たり次第拘束して壊滅させる必要に迫られており、FBIもCIAも功を焦っていたと言う事ができます。
しかも、城崎君は77年のダッカ・ハイジャック事件で4年の刑期を残して超法規的措置で釈放され、日本赤軍に合流はしましたが、メンバーには加盟していません。それは日本赤軍の声明でも、本書所収の丸岡修・浴田由起子さんの証言でも明らかです。
彼は明確に、ジャカルタには行った事はないと断言しています。城崎君は86年はおろか92年までレバノンにいた事はまちがいありません。目撃した人、彼に会った人は多数います。彼が、86年にわざわざジャカルタに行くような必然性は全く考えられません。ましてや、犯行に使われたチェコ製の手製迫撃砲や爆薬・爆弾などの大掛かりな準備をできたはずもないと思われます。少なくともジャカルタ事件は単独犯ではなく、複数人によるきわめて組織的な犯行です。日本赤軍のメンバーでもない城崎君が単独でできるような作戦でありません。又、彼は日本赤軍とは連絡はとっていたようですが、メンバーでもなく、組織をもたない、一匹狼的な存在でした。その彼にあれだけ大規模な作戦を組織・実行できたとはどう考えても考えられません。あらゆる直接証拠・状況証拠は、城崎君の無実を意味するものばかりです。
彼は92年以降と思われますが、レバノンを出国して、最終的にネパールにたどり着き、僻地で鍼灸医として活動していました。ネパールの医療ボランティアとして活動していたのです。もちろん、彼はインターポールから国際手配されていますので、偽造パスポートを使うほかなかったでしょう。(フィリピン国籍のパスポートでパブロ・タマノ)ネパールの奥地で鍼治療に当っていた彼とジャカルタ事件はどうしても結びつきません。結び付けようがありません。
にもかかわらず、陪審裁判により、彼は有罪を宣告されました。検察側は、「sekigun(日本赤軍でも赤軍派でも彼らにとっては同じこと)は、アメリカ人は皆殺せと主張するテロ組織だ」(から城崎は有罪だ)とアジりました。陪審員をドーカツしたともとらえられます。こんな危険な奴を無罪にするような奴は愛国者ではないとでもいうように。陪審員には黒人も多かったと傍聴した救援連絡センターの山中幸男さんも言っていました。しかし、陪審裁判は短期間です。
1997年10月20日〜11月13日のわずか半月の期間の審理で結論を出しました。陪審員制度が導入される前の日本での裁判であれば、何年もかかった事でしょう。もし、日本での裁判であったら、少なくとも検察側のこのような弁論が大手を振ってまかりとおるようなばかげた魔女狩り裁判はできなかったでしょう。又、証拠や状況証拠を慎重に調べさえすれば、検察側の主張はまず通ることは難しかったのではないかと思われます。そもそも立件することすらできなかったのではないかと。日本からワシントンに出張した高橋警部にしても、警視庁にしても提出された証拠から考えて到底城崎君のやった事件とは考えてなかったのではないかと推測されます。事実、ローマ事件・ナポリ事件では結局城崎君は犯人ではないと日本警察も参加して捜査で結論付けられたといいます。(本文参照)更に、犯人として「断定」され、国際指名手配された重信房子さんにしても2000年に日本で逮捕された後でも、未だにローマ事件・ナポリ事件では立件さえされていません。もともと日本赤軍の犯行などとどこの国の捜査当局も思ってもいなかったように思うのは私だけでしょうか?
復刻版を起こし、公判記録や彼の書いた手記などを読むにつけて、私達は彼の無実を一層確信しました。ただ、これから本書を読まれる読者の方は、とりあえず、私達の主張はおいておいて、記録を虚心にたどっていただくようにお願いします。その上でどのように考えられるかは自由です。
もしあなたが身に覚えのない事件で逮捕され、30年の刑を宣告され服役させられたとしたら、しかも、この日本ではなく、アメリカに連れ去られた上で、監獄ですごさなければならないとしたら、あなたはどうされますか? どう思いますか?
その事を私達は、多くの日本の人たちに問いたいと思います。
そのための、ささやかな再出発がこの復刻版です。
亡くなった檜森・関両君の心残りだった思いを私達は受け継ぎ、城崎君の再審・無罪獲得・釈放のために、これから奮闘するつもりです。この知られざる事実を広範な民衆に知らせ、理解してもらうことからまず始めなければならないと考えています。
アメリカ国内にも城崎君を支援する人や組織があり、彼らとの連携も模索しています。
アメリカでは、最近、無実の死刑囚が、DNA鑑定などにより、再審で無罪になって釈放されるケースが相次いでいます。このような再審を支援する組織や専門家の方もいるようです。私達は、このような支援組織とも連携して城崎君の無実を一日も早く晴らしたいと考えています。
日米の連帯で、無実の城崎君を救出し、いつの日か再会できることを願って!!!
2009年3月17日                           (文責:西浦隆男)

目    次
復刻にあたって ・・・・・・・・P.1
1.風の人 準備号3(1997年10月5日発行) ・・・・・・・・P.6
2.風の人 準備号4(1997年10月11日発行) ・・・・・・・・P.10
3.風の人 準備号5(1997年10月23日発行) ・・・・・・・・P.13
4.風の人 準備号6(1997年11月5日発行) ・・・・・・・・P.16
5.風の人 準備号7(1997年11月16日発行) ・・・・・・・・P.20
6.風の人 準備号8(1997年11月29日発行) ・・・・・・・・P.27
7.風の人 №1(通巻9号)(1997年12月14日発行) ・・・・・・・・P.30
8.風の人 №1(通巻10号)(1998年1月11日発行) ・・・・・・・・P.32
9.風の人 №3(通巻11号)(1998年2月15日発行) ・・・・・・・・P.34
10.風の人 №4(通巻12号)(1998年3月28日発行) ・・・・・・・・P.36
11.風の人 №5(通巻13号)(1998年4月30日発行) ・・・・・・・・P.39
12.風の人 №6(通巻14号)(1998年5月10日発行) ・・・・・・・・P.41
13.風の人 №8(通巻15号)(1999年3月3日発行) ・・・・・・・・P.43

資料
1.風の人 米国ワシントン連邦地裁裁判断片集 (1998年10月21日発行)・・・・P.52
ジョー・デ・ゲバルデヴィチの歌 南田 草介 ・・・・・・・・P.53
米国の陪審制度と城崎さんの裁判 喜田村 洋一(弁護士) ・・・・・・・・P.56
ワシントン連邦地裁陪審公判記録抜粋 ・・・・・・・・P.61
2.Supplemental Briefへの補足説明 ・・・・・・・・P.87
3.付属資料1.丸岡修氏の証言書 (1998年1月9日) ・・・・・・・・P.95
4.付属資料2.浴田由起子さんの声明 ・・・・・・・・P.96
5. 丸岡修さんへの手紙 (城崎勉) 1998年1月25日 ・・・・・・・・P.97
6. 98年5月国際救援連来集会へのアピール 国際救援は今?(丸岡修) ・・・・P.101
7. 98年5月国際救援連来集会へのアピール (浴田由起子)  ・・・・・・・・P.103
8. 城崎勉さんへの手紙 (風の人) 1998年6月7日 ・・・・・・・・P.105


付属資料:世界・パレスチナと事件の関連年表 ・・・・・・・・P.106

追記
アメリカで服役中の城崎勉君が失明の危機!! 情況」2008年12月号 ・・・P.108

;;準備号3 97年10月5日発行
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無罪を勝ち取ります
共に浮かぶ会の皆様へ
97年9月14日
城崎 勉

 会の発足をとても喜ばしく、かつ力強く思いながら、なんら、それに呼応するアピールを出すなどしてこなかったこと、すべてを会の人々まかせにしてしまったことを、まずお詫びします。
 アピール文のタイトル「(私の)無実を確信する!」には本当に力強い支援を得た思いで一杯です。
 弁護士との意思疎通がうまくいかないくても、まあ仕方ないや、とあきらめてしまいがちになります。長い外国暮らし、意思疎通がうまくいかないことがあたりまえだったのではないか、いや、その昔、国内の弁護士とだってうまくいかなかったし、「同士」と呼び合う人々とだってソゴ、ズレがあたりまえだったんじゃないか....などと。弁護士が無実でない側にたっていることに、いらだちを覚えつつも、しょうがないとしてしまいがちになってしまいます。
 アピール文は、そういう私自身の在り方を叱咤激励してくれました。
 先日、弁護士面会があり、「前のレポート(裁判資料に関する私の意見レポート)は良かった。新たにまたドーンと入れるから....」と言っていましたが、会の皆様の力強い励ましに応えるためにも、もうすぐ入るであろう新たな資料と取り組んでいくつもりです。
 ところで会のアピール文、すごく感動しましたし、当然ながらこれが主ですが、同時に苦笑も禁じ得ませんでした(これが従であることは言うまでもないこと)。なんで苦笑したのかというと、幾つかのミス、誤解について書くと以下になります。

a カトマンズで捕まったのは昨年の8月ではなく9月です。より正確には、捕まったのが9・19で、米当局(FBI)に引き渡されたのが9・22。そのまま強制連行され、米本土に着いたのが23日の午前0時過ぎでした。

b 裁判を重ねてきているのは連邦地裁ですが抑留されているのはヴァージニア州のアーリントン郡拘置所です。多くの地裁は拘置所と併設されているのですが、連邦地裁の場合、それがなく、[ワシントン]DC内や周辺の拘置所に拘置され、裁判日に出頭となっています。

c これはどうでもいいことですが、残刑は4年半でした。

d これも別に問題とは言えないでしょうが、私は、どこへ行くのかも定かでなかった上に、当時、痔の手術からあまり日が経っておらず、足手まといになるかも、という不安も抱いたままでした。つまり、「世界の人々と....武装した解放闘争に参加....」という意識性はすごく希薄でした。それでも、獄中にいることよりも、とにかく「外」へ出て自分のできる範囲で貢献することが自分に荷されたこと、という考えから行きました。

e 「当時、『世界党-世界赤軍』....」という文には笑ってしまいました。私は赤軍派のメンバーとして、そういう言葉を口にしたこともありますが、実は私自身そんなことをまったく信じてはいませんでした。私が赤軍派に入ったのは、「日本国内で本気で武装闘争を考え模索している唯一の党派」と捉えたからであって、「世界党-世界赤軍」はもちろんのこと、じつに多くの点での違いを認識していました。国際根拠地論に魅かれる人もいましたが、私は国内のゲリラ闘争派(?)でした。
 このことを論じようとすると、かなりの紙数が必要なのでしょうが、ごく簡単に書くと、以下です。
 その昔、ヴェトナム戦争が激しく闘われていた頃、日本からの代表団----ということは共産党(系)か社会党(系)ですが----が、<いろんな物資が不足してお困りでしょう。出来る限りのことはしますから、何を送ればいいか教えてください。>といった趣旨の申し出をしました。これに対して、ホーチミン大統領は、<私たちの国は貧しい上に、長期の戦争、更には空爆などで思うような生産活動も出来ません。したがっていろんな物資が不足しているのは事実です。しかし、私たちにとって最大の支援は、あれこれの物資を送ってもらうことよりも、あなた方が日本国内で、アメリカによる侵略戦争を。その侵略に加担している日本の政府の姿勢を、やめさせるよう闘うことです>といった内容の応答をしたそうです。私は、そのホーおじさんの言葉の中に、自らの本来の使命が実に明瞭に示されているとすごく大きな感動をおぼえたものでした。(ちなみに、最初にこうしたことをはじめて見聞したとき、私はまったく勝手に、その発言は解放戦線の代表の発言と思い込んでいました。北はスターリニスト官僚の国といったような考えがあったからです。)
 上述したように、党派性として、世界党だとか国際根拠地だとかを口にすることはしましたが、そうするときには、我ながら無責任なことを言っているな(!)という思いでした。
 小国ヴェトナムの人々が物資の不足などの困難にうちかってアメリカの侵略戦争と闘っているのですから、われわれがさまざまな困難を克服しつつ、国内でゲリラ戦を展開-拡大していくのはごくあたりまえの使命だと考えていたのですから。

f 人民民主主義路線を鮮明にした5・30声明とは77年のそれだと思います。したがって、ダッカ闘争はその年に遂行されたということになります。

g 裁判所も政府の一部だといってしまえばそれまでですが、通訳を派遣したのは裁判所です。(この通訳女史は、少なくとも表向きは、政府=検察・FBIに対して、強い敵意を表すことがあります。ダソク。)

h 「司法取引」に関連してですが、「司法取引」とは日本でいうなら、損害賠償などした上で深く反省をいたしております、情状酌量のほどを....と言うようなもの。米国の場合は、積極的に検察・警察側に協力して、大幅減刑を策すということもめずらしくはないそうです。
 私の場合は、国(検察)側が、87年6月のローマ事件だの、88年のニューデリーシティバンク爆破事件だのといったのを、あるインフォーマーのデタラメ証言だけを頼りに、追起訴する態勢を示したのですが、その時期に、弁護士が突然、司法取引を持ち出してきました。弁護士だけでなく、いろんなところから、それに同意せよという圧力がありました。もし、あの圧力にながされていたなら、マドリッド事件(どうも二度も米国大使館にロケット攻撃があったらしい)やら、なにかわけのわからない事件をすべて背負わされるところでした。刑を軽くするどころかものすごく重いものに、他方、国・FBIの方は幾つもの未解決事件を一挙に「解決」して、軽い気持になれるという図式だったようです。
 最後に、裁判資料は、検察側の論理が幾つもの点で成り立たないことをはっきりと示しています。弁護士は基本的にそれを認めながらなお、更なる資料検討の中で、弁護士にも無実を確信させられるよう働きかけていくつもりです。
 そのためにも、会の皆様の力強いご支援は本当にありがたいものがあります。それに応えるべく、頑張ります。会の皆様やK弁護士との連携を密にして無罪をかちとります。

P.S.1 2ヶ月余りの公判延期は、本当に、「天が与えてくれたものかもしれない」という思いです。すごく共感・共鳴する言葉です。
P.S.2 パラドックスなのかもしれませんが、国内の革命運動論者にしても、やむをえない国外暮らしの中で義勇兵活動やさまざまな人民支援活動は、これまた当然と考えております。
城崎 生




;;準備号4 97年10月11日発行 より
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10/21公判開始まで、あと11日!
共に浮かぶ会の皆様!
97年9月21日
城崎 勉

 今日は、9月21日ですから、会の設立者の一人と○○&△△たちはそろって私の実家訪問中ということになるな....なんて朝から何度も考えたりしております。せっかくの皆さんの訪問なのだけど、きっと得るところ少なし、という結果だろうな、とも。
 私自身は、カトマンズで捕まったのが9/19、ネパールから合衆国への移送が9/22〜23、この拘置所に収容されたのが9/26、一年間が瞬く間に過ぎてしまったという感じがします。
 先日(18日)、早朝に突然「今日、出廷!」と言い渡されました。
 合衆国の場合、ほとんどの裁判所に隣接している拘置所があります。隣接というよりも、拘置所は裁判所の一部という方がより正確でしょう。
 したがって、普通、「出廷!」と言う場合、7:30分頃から地下の仮監へと集められ、そこで腰にチェーンを巻かれ、そのチェーンに手錠を固定され、かつ、5人ずつ数珠つなぎにされて、地下通路を通って、隣の(?)裁判所の監獄区へと行くことになります。といっても、私は地下通路へとつながっている空間(広間)へと数珠つなぎになった彼らが進んでいくというのを二度三度、視認したことがあるだけで、それから先へはいったことはないのです。なぜなら、私の場合、裁判はワシントンD.C.の連邦地裁で行われ、この拘置所へは「預かり」という形になっているからです。(D.C.の連邦地裁は拘置所を併設しておらず、そこへ出廷するもので)拘置中の者のすべては、どこかの拘置所への「預かり」ということになります。)
 さて「預かり」の身分である私の場合は、「今日、出廷!」と言われたら、自分の房から地下の仮監へと引っ張り出される時間がすごく早いのです。たいがいは6:30、時には6:00ということも。というのも、いつD.C.側からお迎えがくるかが不明だからです。朝のラッシュを時を避けてくる早く来る(7時頃)というのがよくあるパターンですが、時には10時頃に来たり、ということもあります。それを、完全に拘置施設の外へ出ることになるので、腰チェーンつき手錠に加えて鎖つきの足錠を装備(?)ということになります。歩く距離なんてほんの少しですが、護送用の車まで、片足を進める毎にジャラジャラと言わせながら、そう丁度、おしめをした子供がヨタヨタ歩くような感じで歩を進めなければなりません。なぜかというと、足錠がぶつからないように少し股を広げて歩かねばならないし、一歩の歩幅も鎖の長さに制限されるからです。("Let's go!"なんて随行のポリに言われて、そのポリと同じような歩調でもとろうものなら、とたんに両足に痛み。ヘタをすればバタンとひっくりかえってしまうかもしれません。なにしろ、バランスをくずした場合、腹部前方で固定されている手にバランス回復作用を要求するのはちょっと無理な相談というものだからです。でも、ひっくり返ったという光景はいまだ見たことはありません。)
 前置きが長くなってしましました。
 この日法廷(hearing)の中心テーマでは、来たる公判に向けた陪審員の選定に関して、判事が、検察・弁護士双方と意見交流し、方向性を確認していくことにあったようです。選定開始の日、その人数などなどで手短なやりとりが交わされました。
 それ以外に、この日の法廷で話され、私が記憶していることは、以下A→Dです。
A 検察側が相も変わらず「新たな事実発見(!)」を続けていて、次々とそれを提出している様子なのですが、最新のものとして、ホテルの壁から新たな指紋が見つかり、他方、ロケットの発射筒が入っていた箱からは血が発見された、ただし、その鑑定(?→翻訳)には2週間ぐらいかかる、云々というものです。
 これに対して、判事の方が、それはあまりにも時間がかかりすぎではないか。そういうことでは弁護側が反証のための準備をする時間がなくなるではないか、証拠提出期限は、今から一週間以内とする。それ以降のは証拠採用することはできない、などと裁定。
 以前のhearingでの確認では、証拠提出期限は、公判開始日60日までということだったのです。ということは、その確認時点では5/31がその最終日、現在、公判が10/20へと延びたことから、8/21がそれということになります。それがいつの日にか前の確認がうやむやというか、ないがしろにされたというか、こうした在り方自体、大きな問題です。加えて、私はこの日の検察発言は単なる脅しでしかないと把(*ママ)えています。そして、むしろ、へんな制限なんかして検察を助けてやるよりも、そういった「証拠」を是非とも提出させるべきだとすら考えています。というのも、今頃になって、壁から指紋だとか、箱から血を見つけ出したなどなどということ自体がおかしな話なのです。そういうおかしな話を今頃、公然とだせるということ自体に彼らがウソ製造能力を有していることをはっきりと示しています。そして、更に、もしそれらが私のものだなどということになれば、実はどのようにして11年余り前に、5週間余りも経ってから私の指紋と認定できたかという不可解なプロセスのなぞを解くカギをも提供してくれることにつながるだろうと考えています。
B 検察側が証人申請を「日本赤軍に関する専門家」なる人物について、弁護士が法廷を証言の場にすべきであり、講義・講演の場にしないという条件を要求して、少々やりとり。
 他にも、爆発物だけでも似たような専門家が3人もならべられていることへの弁護士からの疑問と若干のやりとり。
C また検察側がインドネシア人を12人も証人としていること対して、判事が、その翻訳者など、裁判所の方では予算の都合からしても無理であり、国(検察)側はそれらに責任を持って欲しい云々と要求。
 しかし、そうすることは、国側が自分たちに都合のいいような翻訳もできるということにも。
D 検察側が、被告は86年当時はヒゲなしだったのだから、公判に際してヒゲをそることを要求する云々。これに対して、弁護士は、あっさりとヒゲをそることに異議はないと応じたので、motionとしては却下。(合意事項になったしまったが、争点としての価値なし=失効→却下となるそうです)。
 しかし、事件当時、問題になっている石田氏や菊池氏はヒゲなしだったかもしれないが、私がヒゲなしだったなどという検察の論理に何ら反撃することもしない弁護士の在り方に、またか!という思いでした。
 
 このhearingに先立って、弁護士がほんのちょっとの面会、そこで....
(1) 8/14にメガメ作りのために検眼に行った医者は、なにかの手違いで処方箋のみを拘置所当局に送り---信じられないような話!---、それがD.C.のポリスへと送られ....。とにかく、今週中に(ということは、この18日か翌日19日というハズ)には私のところに届くということが判明した、というストーリー。しかし、これはストーリー、やはり届かなかったよ。
(2) 裁判資料(の差入れ)(?)! オー、忘れていた、すぐやる。という具合に相変わらず甘い口約束。時間がなくて書けなかったけど、K弁護士への資料送付は一体どうなっているのかな(?)!まさか、こっちの方も"オー、忘れていた"なんてのではないでしょうな....。

 この前、会のH氏のところへ手紙を書いている、その終わりぐらいのところで、ボールペンのインク切れとなってしまいました。この時のあて名書きは、看守氏からボールペンを借りて、ヘンな姿勢で....というものでした。ボールペンとか合衆国内用封筒とかを購入手続きしているのですが、なぜか私には届きません。今、書いているこのボールペンも、他のプリズナーから譲ってもらったもの。この前、あの小さな封筒とかメガネの件でもそうだけど、ヘンなところでイヤガラセをしているみたいです。なんとまあ心貧しき「民主主義」の国であることか、という気持ちです。でもそれは私の闘士をかき立てるだけなのにね、アハハ....。
 
 P.S.  K弁護士とT弁護士の直接電話がうまく働いていることを希ってやみません。
 
 城崎 生




;;準備号5 97年10月23日発行 より
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共に浮かぶ会(神奈川)の皆様

 10月7日に予審(prelimnary hearing)がありました。その簡単な報告をいたします。
 中心的な問題は、"Blood and Rage"の著書、Farrell氏---現在はどこかの大学の教授となっているようで、検察側はPrf.Fを強調していました---への尋問でした。この予審(の中心課題)は、弁護士側が検察側の証人申請に対して氏には証人としての資格がないというmotionを出したことに基づいている様子でした。(私自身はむしろ証人申請を逆手にとって、氏の著作のいいかげんさを公判廷で明らかにした方がよっぽど有益だろうという考えでした)
 判事の都合などもあって、あまり時間的余裕はないという条件下でのhearingでした。そのため申請書の質疑は"基本的に申請書・略歴などに書いてあることだから、あえてここでやることもないでしょう"という形で、ほとんどなしでした。
 弁護側は"氏はTerrorism"の専門家ということだけど、Terrorismとは何ぞや(?)" "それだったら、イスラエルレバノン侵略の後、米軍がジュネーブ地区などを攻撃したことがあるが、土地の人からみたら、米軍=Terrorismということになるのではないか(?)"といった問いかけから開始しました。しかし、判事が、"なかなか興味深い問答なのだけど、最初に断ったように、今日は時間が限られているので...."と、この問答はうちきりになりました。勿論、いろんなことを質問していったのだけど、要は弁護側は、"氏の知識or本の内容というのは氏が直接に収集したことに基づくものか、それとも新聞その他の方法での伝聞証拠に依ったものか、証人が認めたように被告との関わりにおける内容はすべて伝聞に基づくものである、したがって、氏は証人として不適格であり、判事は検察側の証人申請を却下すべきである"と要求したのでした。
 こうしたことの結論として判事は、"氏の証人としての発言(問答)に限定を付する。それは被告との関わりを考えて、71年の「M作戦」被逮捕、77年のダッカ・ハイジャック、及び86年のジャカルタ事件に限定する"と裁定しました。(T弁護士は、"証人は....限定...."という部分では"してやったり!"とばかりにニンマリしていたのですが、"86年の...."ではマッサオという感じでした。果たして、それも制約されるのかどうかはよくわからないけど、上記したTerrorism論争などを倍審の前でくりひろげたら、ちょっとした効果があるだろうし、更に、これは明らかに質問できなくなった著作の中のいろんな誤りなどを突くことで、こちらが有利なポイントをかせぐこともできなくなったのですから、私からみれば自ら足枷をはめてしまったようなものです)
 この他には、幾つかの細かい点についてあれこれ、そして裁定;たとえば、インドネシア人の証人に対して、通訳体制をどうするか→インドネシア語と英語の通訳は文章毎に行う方式でやる、英語から日本語へのは、これまでそうしてきたように同時通訳とする、公判中、検察側にFBIの人間の同席を認める、など。
 ちなみに、日本語の同時通訳のイヤフォーンは傍聴席でも借りられるようです。これはその日、通訳にあたっていた女性の弁なので、オフィシャルな確認とは言いかねますが、まあ、そんなところでしょう。
 これで、あとは20日からの公判開始あるのみ....と思っていたら、もう一度hearingを設定、この日付がなかなか都合がつかず....最終的に、15日15:00からとあいなりました。
 余談を(冗談みたいな話)を一つ。
 このhearingの前日(つまり6日、月曜に)、日本から何通かの手紙を受けとりました。そのうちの一つに、ワシントンD.C.周辺の地図のコピーが同封されていました。私は肉眼で(つまりメガネなしで)見ただけ、"これでは細かいところはわからんじゃないのかな"という思いでした。が、"そのMAPはセキュリティ上問題になる可能性が大きいので領置する"ととりあげられてしまいました。あらまあ、こんなこともダメなのか、なんて思っていました、その時点では。ところが、....
 このhearingの直前、弁護士が、"昨日、日本から手紙が来ただろう?! その中に地図が入っていただろう?! 一体、誰が何の目的で送ってきたのだ?!"などと詰問。
 要するに、拘置所当局からFBIを経て検察側へと情報が流れ、ひょっとしたら脱獄or奪還作戦を計画云々という推測にまでなっていたらしい、ということが判明しました。
 私が合衆国内に住んだことはなく、すでに1年余りになるのに拘置所ー裁判所の経路上の主要建物も知らず、ペンタゴンを見て驚いたり、capitol hill(国会議事堂)を見てポケーとなったり....という実情に対して、同情して送られてきたのですが....。
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      ★『Blood and Rage』、「血と怒り」とでも訳しましょうか。この本は、日本赤軍テロリズムとして断罪していて、城崎さんの手紙にあるように、伝聞資料に基づいた著作です。P.スタインフォフさんの著作部分も資料引用されていますが、こうした伝聞著作を証拠として提出する・させること一つをとってみても、城崎さんへの今回の起訴が如何にデタラメであるかの証左です。
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共に浮かぶ会の皆様

 10月15日、最後の予審(hearing)がありました。そのことについて簡単に報告します。
 ---実はこのhearingの前日の夕方になって、弁護士事務所から、検察側が申請している証人(の一部)の資料を入手しました。その中には事件直後のを含めた多くの調書も入っており、現在、その検討に私の頭の中も、「生活」の多くが制約されており、そのために本当に簡単にしかできません。
 Jury(陪審)の選出過程にあることが裁判長から報告がありました。百名〜百五十名(?)を無作為に選出して、書類回答ですでに何人かを除去した。その除去例の中には、(1)糖尿病、腎臓病で悩んでおり、病院通い。仮にそれがなくても、小便が近く、とても陪審に耐えられない云々、(2)過去3人の警官に殴られたことがあり、とても正しい判断はできない、云々、などなど。(なお、最終適に陪審員が確定するのは、公判に入ってからのこと。公判冒頭に弁護側、検察側が各々何人かを忌避できるそうで、そうした「儀式」の後、ようやく冒頭陳述へと入るそうです)
 検察、弁護おのおのが幾つかのmotion(却下申請とでも訳すのだろうか(?)。その中で面白かった二例。
 一つ、弁護側が"検察資料の幾つかに不備があり、従って証拠不採用すべき"旨のmotion。そのうち少なくとも私の学業成績については、いつそういう成績をとったのかは不明(かつ落第点だったのはどれかも不明)云々、これではあまり意味なし、加えて、それと事件とは関係もない、云々ということでmotion採用(つまり証拠としては不採用)
 今一つ、検察側がインドネシアのポリス(国警であれ、ジャカルタ地区警察であれ)対する質問は(政治的)事情があり、事件に直接関係しないことなどについての反対尋問は制限して欲しい云々とmotion。(初めは反対尋問をしないようにして....、だったのが、判事に指摘されて言い直し。)あれこれと応酬があったけど、結局、事件に関連したことに制限するということで、別にあえてmotionとして言うこともなかったにじゃないの、という判事の裁定。
 公判は、予定どおり、10月20日から。しかし最初の三日程はまだまだ双方のmotionやら法律論争やら、上述した陪審員候補への棄却やらなにやらが繰り替えされ、その後ようやく、陪審員を前にして冒頭陳述(検察側)に入っていくということです。そして、公判中は、月〜金、9:30〜5pmまで基本。
 検察側は計40人余りの証人を予定、弁護側は数人(5人〜10人のあいだ)を予定ということでした。

 追伸 今日、弁護士面会があり、改めて弁護士の協力、つまり黙秘を解くように要求してきたのだけど、(私にもスジがありまして)そんなの受け入れられるわけなし。
 そういうのは、いつものことだから別に驚かなかったのだけれど、驚いたのは、弁護士が私にワイシャツとかズボンとか持ってるか(?)と尋ねてきたこと。私の所持品は着ていたもの(下着)も含めてすべてFBIに押収されたまま。日本と違って、その押収品目録も私には来ないままなのです。そのことを話したら、首廻りは?胴廻は?などとサイズを尋ねてくるのです。大体において、ネパールにいた頃とはサイズが違っているし、元々US式のサイズは知らないなんてのもありまして....。"そんなのどうでもいいよ、自分はこの拘置所のユニフォーム(囚人服、つまり半袖のツナギ、背中にARLINGTON CO.JAILと記入あり)で十分だよ"と言ったところが、"そんなの着て出廷したらそれだけでJuryからguilty(有罪)と判定される云々"ということでした。要は、Juryの前で芝居のためにもまずは化粧からというところでしょうが、なんともはやという気分ではあります。
 97,10-16記




;;準備号6 1997年11月5日発行 より
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公判始まる! 10/20〜24の報告
共に浮かぶ会の皆様へ
97,10-26付け

 『風の人』準備号や「救援』紙など、次から次という感じで受け取っています。皆様のご支援・励ましをひしひしと感じています。どうもありがとうございます。
 公判を目前に控えたところで、弁護士事務所から、検察側証人に関する資料がどおーと差し入れになりました。それにザ〜ッと目を通した上で、弁護士向けに問題点、疑問点などひろいあげたメモを作る作業が公判開始前夜までかかってしまいました。公判開始までには、手紙書きとかいろんな書類の整理とか、いろんなことをやっておきたいと思っていたのですが、そんなことにはとても手がまわらないままに、公判に突入となってしましました。

        • 証人尋問では城崎さん退廷・退席----

 さて、公判開始というからには最初の日から陪審員が居並ぶ法廷での裁判....と思ってしまいますが、どっこい、最初の二日間はこれまでの予審と同様、弁護または検察側申し立てをめぐっての議論---これには証人に対する尋問とその結果をめぐっての議論も入っています---で、なんで公判に入ってからこんなことやるんだろう(?)と私には理解できないことの一つです。更に言えば、インドネシア人証人に関する申し立て--尋問--は、議論に際して被告の私が退廷となりました! これがほぼ一日半続いたのですが、なぜ私が退廷することになったのかというと、申し立ての出されているインドネシア人証人の多くは「犯人」を目撃したという証人なので、私がその尋問に同席したならば、彼らの目撃した人物のイメージとして抱いているものが現在の私のそれへと改められ、本裁判つまり陪審員の前での証言にも影響を及ぼすかもしれない、そこで予断を抱かせるようなことを防止するための措置、つまり被告を防衛するための措置として、私が退廷・退席になったというわけです。しかし、被告・弁護士側席に着いているのは、白人のT弁護士、黒人のH弁護士そして、モンゴル系の私という構成なのですから、一体、退席がどれだけ効果を持つものなのか、後述する似顔絵と共に、不可思議ことの例でしかありません。
 もちろん(?)、退廷になっているわけですが、そこで一体どんな議論がされたのかということは、私にはまったく不明でした。また、いつ退廷が解除になるかもしれないので、待機という形でした。

        • 背広・ネクタイ姿へ変身----

 陪審員の前に出るということは少しでも良い印象を与えるようにする必要性が伴うそうです。その一例が身なり、動作などにも注意しないといけない、というわけで、弁護士事務所は私のために貸衣装か古着かしらないけど、背広とネクタイ、靴をも用意しました。は、<背広とネクタイなんて窮屈でいやだよ、だいたいそんなもの着なれていないし、そんなもの着てすましているなんてかなりシンドイこと、それよりも獄のユニフォームである半袖のツナギでいる方がリラックスした気分で参加できる....>と言ったのですが、<そんなの着ていたらそれだけで有罪にされてしまう、ショーゲームみたいなものだから、パフォーマンスが大切なのだ>ということでした。
 そこで仕方なく、公判第一日目の20日の朝には、背広・ネクタイで出廷したのですが、ワイシャツの方はほぼ問題なしだったけど、背広方は型・胴・腰と、窮屈で窮屈で、もうそれを着ているだけで「苦しい!」と言いたくなるような感じ。加えて、ネクタイ。なんだか首を締めあげられているようで....。ホントに、この日はすぐ退廷になって、この衣装からも開放されて、ほっとしました。あははは....。
 二日目も一旦はその姿になったのだけど、この日も予審と同じようなものということで、すぐにアーリントン・ジェイルという文字が背中にくっきりと書いてある半袖のツナギに戻りました。要は、この二日間、私は背広とネクタイに慣れるための予行演習をさせられていたようなものだったんじゃないか、と苦笑せざるをえませんでした。

        • 陪審員候補者たちを前にして----

 三日目は、陪審員の選定を ほぼ一日が終わってしまいました。120人余りの中から最終的には(正12人+補6人 計)18人の陪審員を選出ということになったのですが、さまざまの質問への反応の中から少しでも自分たちの側に有利になる可能性を持った人材を残そう....とばかりに検察も弁護も必死。私の方は、よく判らないながらも好奇心をもってその過程をながめていました。決して居心地はよくないベンチに座ってその過程に参加することを強制され、それに耐えている陪審員候補者たちの辛抱強さには正直言って感心したり、これでは背広のことをとやかく言うわけにはいかないと反省したり、という状況出した。
 この陪審員選定は、(判事の任官式とか退官式とかいった)セレモノニー用の大法廷行われました。
はじめの予定では、陪審員選定のあと、本来の法廷へと場所を移して、冒頭陳述をも行うということだったのですが、上述したように選定のみでほぼ時間切れ近くとなってしまい、判事から陪審員への接辞も簡単なものとなりました。
 ----(丁度、始まったばかりの)ワールド・シリーズとか他のスポーツとか天候とかなどなどについては観るのも話すのも自由だけど、この事件に関するニュースについては誰とも話してはならないこと、判断するのは法廷に出された証拠に基づいてのみ行うべきこと、したがって法廷ではしっかりと見聞して欲しいこと、などなどがその中心的なものでした。
 私の裁判では人種構成なんて関係ないことなのですが、参考までに書くと、正陪審のうち白人は1人(男)、その人を含めて男は4人、残りはすべて黒人女性。副には白人男性1、同女性1が含まれ、残り4人はすべて黒人女性です。

        • 法定内で似顔絵作業----

 この陪審員選定過程の際に(そしてその翌日も)、絵描きが入ってきて、判事--検事・弁護士・私などの似顔絵作業をやりだしました。なんだこれは、そんなことしたら当然そのコピーが検事から、目撃したと主張している証人へと渡るではないか....と思いました。法律を勉強中という通訳によると、それは全然心配する必要ない、絵は絵であり、本人とは違うから云々という説明でしたが、私にはさっぱりその論理がのみこめないというのが正直なところです。

        • スピードアップ---- 
        • 検察冒頭陳述・弁護士側冒頭陳述----
        • そして証人尋問----

 四日目、ようやく本来的な意味での公判の開始。ます検察側の冒頭陳述、そして証人尋問へと進みました。あたかも、これまでの遅れを一挙にとりもどさんとしているかのような、早い展開でした。翌五日目(金)のも合わせると、インドネシア人6人、US3人の証人尋問が終了しました。

        • 日本の法廷との違いを実感----

 この両日で私は日本の裁判(法廷)との違いを改めて実感しました。
 これまでの予審の中でも「オブジェクション(異議あり!)」は何度も聞いてきたのですが、公判の場での「オブジェクション!」が力のほどを実感しました。
 誘導尋問とか、予審の中ですでにタガはめられているのを越えた時に、あるいはそう感じられた時に「オブジェクション!」となり、判事がその意義を認め、その質問を無効にする場合と却下して質問--回答(証言)をうながす場合とがあるのですが、もし、異議を認めるのが続いたりすると尋問者そのものにすごいプレシャーがかかり、質問内容がかなり違ったものになるだろうな、と思わざるをえませんでした。
 その一例になるのですが、五日目の午後には、かの"Blood and Rage"の著者、W.Farrellが証人台に立ちました。検察側は、日本赤軍とはいかに恐ろしいことをやった組織か、また被告はどんな恐ろしいことをやったかなどをいろんな角度からFarrellに訂正させたかったのですが、なにしろFarrellの知識は自らの直接取材ではなくその他からの伝聞に基づくものであり、これは大きくタガがはめられていますし、証言内容は71年のM作戦、77年のダッカ・ハイジャック作戦そして86年のジャカルタ事件に限定することも確認済みなのです。そんな状況なので検察側がFarrwllに語ってもらいたかった(らしい)、日本赤軍による対US大使館攻撃の前例としての在クアラルンプール領事館占拠云々には、弁護士はオブジェクションを連発し、そのほとんどが受理され、日本赤軍リビア(カダフィ)やイランとの関係云々ももちろん同様、などなどといった制約の中で、弁護側の反対尋問も含めて所用時間はわずか2時間たらずでした。
 (へたをすればこのFarrellの尋問(証言)だけで一日以上ということも予測していたのですが、すごく簡単に片付けることができたという感じでした。そして、T弁護士は、どうだい、してやっただろうと言わんばかりの上機嫌でした。)
 この二日間で一番時間がかかった証人はレンタカー会社の元従業員で、Mr.菊池の契約書をつくり、パスポートや免許証のコピーをとったという女性でした。この女性は検事べったり、弁護士の質問には応えようとしないといった対応にでたので、判事が「××さん、弁護士の質問は決してプレッシャーをかけるようなものではありませんよ、応えるようにしてください」と警告を発したりしました。
 実は、私もまたピンチヒッターの通訳も、四日目の陪審員の退廷時にバタバタと動くという失敗をしてしまいました。
 私の方は、検察側の冒頭陳述で赤軍派日本赤軍が同一視されていることに対して、若い通訳たちにその違いを知ってもらおうというのが目的でした。他方、ピンチヒッター通訳の方は、声が大きくなったり(それを廷吏たしなめられて)つぶやき声になったりしたことから、私に対して「聞こえましたか?」と飛び出してきたのがそれです。二人とも廷吏(警備員)から注意されましたが、これは陪審員の目からは「減点!」になるのかもしれません。
 ある廷吏によると、(これまでのところでは)弁護側の(判定)勝ちだそうです。
 忘れるところでした。判事は陪審員を笑わせるようなことを言ったり--それがあたり前らしい--、とても日本の法廷では考えらませんね。

P.S.
 陪審員って12人のはずなのになんで席は14もあるんだろう....と不思議でした。それがやっと明らかに。なにしろ私の陪審は計18人なので、その固定席の他に更に4席を用意したのですから....
 97.10-26
 城崎 生

(見出しは浮かぶ会で付けました。)




;;準備号7 1997年11月16日発行 より
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公判第2週の報せ(10月27〜30日)
共に浮かぶ会の皆様
11月2日
城崎勉

 「風の人 準備号5」や空気の入るナントカなどなどこの一週間に受け取りました。本当に支えられているという思いで、元気一杯というところです。
 まず、お詫びと訂正をしなければなりません。
 「風の人 準備号5」のP.3右側の中段ぐらいにあるのですが、10月15日の予審での申し立ての一つに関して、正しくは、私の学業成績については、弁護士側からの申し立てが却下で証拠として採用するというのが判事の裁定でした。私は、そんなものは証拠として意味はなく、申し立てが採用されるのが当然と考えていたこと、及び、マイクを通じて法廷内に流される英語の音声の強弱がひどくイヤフォーンからの同時通訳の日本語のうまく聞き取れなかったことから、自分の考えのとおりになったと早合点していたのです。誤報を流したことをお詫びします。ついでに言うと、検察側は、私が工学部に在籍していたことから爆弾やロケットの基礎知識を有している、と立証したがっていること、それが証拠の一部として採用された理由ということです。
 さて、公判第二週(10/27〜30)について簡単に報告します。本来なら、31日(金)までの五日間のはずですが、この日は判事の都合で(?)休廷だったため四日間でした。
 証人尋問の進行状況は、日本人4人、インドネシア人10人、US人6人が終了し、他にインドネシア人証人の尋問が進行中となっています。勿論(?)、全員が検察側です。
 判事は思うように進行していないことにやきもきし、陪審員のいない場所で双方に早い進行を何度も促しているのですが、証言の矛盾や証拠能力そのものをめぐっていろいろと問題があるためなかなか判事の思惑どおりには行かないという実情があります。
 裁判のナガレとしては、圧倒的に被告・弁護側有利!と言っていいでしょう。
ただし、在NYのある人からの手紙に旨、記されていました。ということは、検察側が提出するさまざまなオドロオドロしている証拠物とそうした法律の存在が陪審員にどのような心理的作用を及ぼすのか不明なので、決して楽観はできないということになります。
 以下、私にとって印象的だった事例をいくつか記します。上に「圧倒的に有利」と記したことがそれらの中に示されると思います。<その一> 高橋にまつわる証拠能力について
 高橋とは元警視庁公安一課の高橋正一のことで、検察側は高橋に私が赤軍派中央軍のメンバーで「M作戦」で16件も起訴されたことなどを証言させようともくろんでいたのです。が、陪審員を退廷させての尋問の中で、高橋は当時のデスクとして16件の取調べに関わっていたのであり、それを日本なら立派な証拠能力をもった証人として通用するけど、US法では、直接尋問者でないので不可能はことが明らかとなり、検察側はオタオタ。更に、私がいつから赤軍派中央軍に参加し....と自供したと高橋が証言するはずだったらしいのだけど、高橋が、「それは私がいろんな事実を照合して作成した報告書です」と言うに及んで、検察側はまっさお! 「高橋に記憶をよび戻してもらおう」とかなんとか言って見ぐるしい姿をさらけだすという一幕もありました。
 実は弁護側の申し立てを立証するため、私も証人台に立って、日本における拷問的取調べの実情や弁護士との交通権のなさなどを話す予定になっていましたが、検察側のあまりにも見苦しい姿にあきれ返ったのか、助け船を出すつもりだったのか、が「これ以上こういう形でやってもムダなので....」と裁定(つまり証言範囲を限定)し、陪審員を席に戻して高橋の証言となったのです。
 言葉足らずなので分かりにくいかもしれませんが、日本でなら証拠となるものもUSでは、伝聞なので証拠能力なし(!)となる一例としてあり、私には印象的でした。<その二>二女性証言のおかしな証言
(a) Pホテルの元受付係は、彼女がチェックインを受け付けたMr.菊池は被告席に座っているにちがいないと断言しました。しかし、新しい説を持ってです。
 彼女はこれまで、Mr.菊池の日焼けしたような(汚い)髪、きつい目つきなどを特徴としてあげ、とくにその目つき、目をみれば100%判別できるとも言っていました。ところが、法廷では、「彼はカッコよかったので、もっと話していたかった」などと言って皆を笑わせたばかりか、「そのカッコよさが今も残っている」から私にまちがいなしと証言しました。50男をつかまえてCUTE(かわいい、かっこいい)とはなんてことだ!ウーン。
 「なかなかの役者ぶり!」
 という感じでしたが、しかし、キツイ目のことにはまったく触れず、その理由がすぐに判明。それは、検察からネクタイの色柄で示すように言われたとき、コンタクトをしていないのでネクタイの柄がよくわからないと言って、わざわざ私の方向に近づかざるをえなかったからです。
(b) もう一人の女性。Mホテルの元受付係もやはり新しい説をもち出しました。
 それはカメラ事件とでもいうもので、Mr.石田が彼女をそのことでひどくののしったというものです。だから決して忘れることはできないと言って検察をニンマリさせました。ところが、その忘れることのできない顔を公判廷では「見当たりません」と答(*ママ)えたので検察はオタオタ。丁度、休廷になったのを利用して、用事をつくって、彼女を私の近くへと連れてきたりしたのですが、そもそも人違いなのですから、記憶がよみがえるなんてことが起こるわけがありません。あはは....。
 当然ながら、弁護側は別の証人へのものを含めて、こうした矛盾証言を鋭く追求したのは言うまでもないでしょう。
 他方、検察側は、Mホテルの受付係でこりたのか、以前から別の人物(W氏[イニシャル表示に替えました=浮かぶ会])と似ていると言っていた女性には、「忘れました」「憶えていません」と連発させて弁護側の追求をそらすよう工作した様子でした。<その三>ポリス(現場写真班)に対する検察の大失態
 検察は、彼がUS大使館及びそこの発射地の写真班長だったことを証言させ、はいごくろうさまといくと考えていたようです。実際、何人もの証人がその程度の証言で終ったりしています。
 ところが、弁護側はそれを許しませんでした。
 彼のチームは、まずPホテルへ行き現場証拠写真を撮った後。US大使館の方へと回ったのです。が、検察の方はそのことを見落としていたのです。それは以前にFBIエージェントが彼を尋ねたときも、FBIにとって最大の関心事であるUS大使館のことだけを尋ねたということに由来していると言えます。そんな過去のいきさつはどうでもいいとして、弁護士がPホテルの調査報告書を示しながら尋問しだしたので、まず検察はアゼン、ボーゼン。
 そればかりか、弁護士がその報告書に添付されている827号室の写真のコピーの一つを示して、「ここに缶は写っていると言えるのか?」と質問。このポリスは「コピーは鮮明でない」をくり返して逃げ通した形になったのですが、検察の方はびっくりぎょうてん、まっ青。というのも、そこにありもしなかった缶(ソフトドリンクだともビール缶だとも説は一定せず)から、それをもって、すべてが私の仕業であると立証しうる最大の証拠となっているからです。


 次に、法廷におけるエピソード的なもの----もちろん、中には後に裁決に影響を及ぼすものもあり----をいくつか紹介します。
◎ あるインドネシア人は、弁護士によって検察側からの下工作について質問があった際、検事席に同席しているのがFBI要員であることをバクロするというハプニングが起こりました。予審での裁定では、同席を認めるが二人がFBIであることを明らかにしないこととなっていたのですが、陪審員にも二人の身元が明らかになり、他方、弁護士の方はこれで話がしやすくなったと言わんばかりに、「エージェントK」を連発。ハハハ....。
◎ ある証人のおかしな発言を追求していた弁護士は、US大使館に貼りだしてある「テロリストの発見・逮捕への協力に賞金」という話しをもちだしました。検察やFBIが無駄としか思えないほどに大量の証人を呼び寄せているとことの理由の一端がそれでも明らかになった、と私には思えました。そして、上記したUS内での対テロ法の効果など考えると、そうしたことが証人だけでなく、陪審員にもなんらかの影響を与えるであろうことを考慮せざるをえないと考えています。
◎ 30日の午前の法廷を学童が参加。ナントカ学校の7年生で約140人くらい、引率者2人、これだけでも私にとってはビックリだったのに、裁判長が「これは11年前....で被告は日本人、現在の証人はインドネシア人で、この法廷では3カ国語が用いられ....」などと解説ときたので、「ウーン、日本とは全然違うな!」とうなりそうになりましたよ。ホント。
 この判事はジョークのとぼしい法廷を考慮してか、陪審員のために一日に一つか二つはジョークを言うのですよ。大笑いしたくなるようなことがあってもニガ虫をかみつぶしたような顔をしている日本の判事と大違い!
◎ 菊池氏(本物)の証人尋問のとき、弁護士が一葉の写真をとりだして、私に「これは本当に君ではないのか? もし君だったら、提出した後、大変なことになるぞ!」とオドシ。ヒラヒラさせながら言うから良くみえない。けど、まさか合成写真ではあるまい。....後でわかったのは、私が退廷したときの尋問のときレンターカー会社の職員が「警察が来て証拠書類(を押収するのではなく)その写真をと(*ママ)っていった」と証言したらしいのです。弁護士の方はインドネシアへの調査旅行の際に、それを把握した上で警察当局にかけあって数々の写真を入手していたこともわかりました。ナルホドネ、ケッコーヤルジャナイ!と思うと同時に、私の反応をみるためにわざとヒラヒラさせながらオドシてみせるというイヤラシイ手口を使うなっての!とも思ったものです。
◎ 「送った」はずの裁判資料が東京のK弁護士にはいつまで経っても届かなかったり、私に対しても「すぐ入れる」と約束しておきながら裁判資料が入らなかったり----最新の例では冒頭陳述。何度も要求し、その都度、OK! 判った!と言っているのだけど全然その気配なし。おかげで私の方から手紙(公判廷での問題メモ)も手渡すこともできず、とどこってる----と書いたら、持ってきてくれ、私からも渡すことができました。
 上述のように独自調査で手腕を発揮し、検察をアゼンとさせたりしてはいるのだけど、弁護士との関係は決してうまくいっているのではないことを付け加えておきます。

P.S.
第二週の出来事とは直接関係はないのですが、おかしなことに気付きました。
 インフォーマーのことです。かのYK氏(※注.菊村憂氏と思われる)を重刑へと導いたアルメニア人インフォーマーの証言のみを頼りに検察FBIは私にローマ事件やシティバンク事件をおしかぶせようとしました(なんとその同じ時期に弁護士などからは、有罪を認めた上での「司法取引」をおしつけようとしました)。
 FBI説によると、私はそのインフォーマーにローマ事件をやったのは自分だ、と自慢したそうです。これまでうっかりしていたのですが、ジャカルタ事件はローマ事件のほぼ一年前のことであり、私の指紋云々というストーリーはとっくに作られていました。もし、私がFBIの描くような口軽の自慢屋だとしたなら、私がインフォーマーに対してローマのことだけでなく(というよりもローマのことよりも)ジャカルタのことも自慢したはずではないでしょうか? いや、それどころか、各地で起こっているいろんな事件も自分が関わっていたと自慢したことでしょう、そういう男なら。
 FBI・インフォーマーのでたらめぶりが改めて明らかになるのではないでしょ
うか。

 11.2  城崎 生



公判第3週の報せ(11月3〜7日)///////
共に浮かぶ会の皆様
11月
城崎 勉

 公判第三週目の状況、エピソードなどを報告します。
 第三週は、日本からはるばるお越しいただいた支援の方が二人、傍聴席に陣取り、無声ではあれ心から励まし、声援を送ってくださいました。(このことに気付いてあわてたのか、大使館の方もこれまでの一人体制から二人(以上)体制へとなったようでした。
 ----税金もムダ使いするなよ、と言ってやりたい。といっても私は日本国に対してこれといって税金は払っていないけど、でも言う権利はあると思ってまっせ)。
 証人尋問はインドネシア人9+\人(この\人は前週からの継続)、US人証人7+\人(この\人は前に証言したのが特別にでてきたもの)でした。そして、これまで検察証人は一応、終了となりました。
 ----エッ!おい!たしかインドネシア人証人は25人ということだったんじゃなかったけ(?)まだ、何人か残ってんじゃないの?!と言う人がいたら、その人の疑問はもっとも。実は、途中何度でも判事から公判のスムーズな運営について検察・弁護双方に注意・警告があり、そうした結果、その他にも証人申請されていたのだけど、裁判進行のため何人かは省略となった様子なのです。同様に、弁護士側の証人もすでに大幅削減になったみたいです。
 ----悲しいかな、私には最終的に何人申請しているのかも分かってはいません。
 ついでに、ちょっと先走ったことを言うことになりますが、被告・弁護人の証人の尋問は12日(水)からで、それまでは陪審員はお休みだそうです。が、10日、11日、もしくはそのどちらかには、弁護側からの数多くの申し立てをめぐっての論戦になるものと私はみています。弁護士側の申し立ては、これまでの証人尋問過程で、明確にウソの証言をした、もしくは信憑性に欠けた証言をした、といった人物の対して、その証人の証言すべてを削除もしくは部分削除をするということになります。(ウソ証言とか信憑性に欠けるという判断は、過去の調書との矛盾や他の証言との矛盾などから判定されています)
 いきなり予告めいたことに入ってしまいまいました。第三週の報告としてやります。
 全体のナガレとしては弁護士側有利ということに変わりはないと思うのですが、検察側が突然きたない手を用いて挽回を策したので、バランスが検察側へと傾いたかもしれません。
 今週のインドネシア人(US人証人)の全員は警官(捜査と鑑識)でした。が、いろんなところで、証言や過去の調書などとの矛盾が顕在化し、この事件の捜査のいいかげんさやうさんくささが明らかにされてきました。それはまた、法廷において検察席に同席しているFBIエージェントの調査・報告書のでたらめさも明らかにし、更には、公判廷で、私がどこに座るのかを証人に入れ知恵していたことも明らかになってしまいました。
 これは検察側にとっては、とんでもないことでです。
 そこで検察側はあれこれとあがいて見せました。最初に、“92年の筆跡”なるものを云々しました。これは検事から、「それが被告の筆跡かどうかも明らかではないでしょう」と即刻、却下となりました。次には、“ネパールからワシントンDCへと連行中の筆跡”を云々しました。これもまた却下。
 そこで「奥の手」として、その飛行機内で被告から押収したと称するフィリピン・パスポートと他の写真計4枚をモニターTVを使って写し(出したのですが、画面に写し出されたのは私自身が驚くような写真へと変造されたものでした。
 11年前Mr.菊池が使ったといわれるパスポートのコピーがレンタル会社でつくられ、それを再度、白黒写真にしたものがあります。これは弁護側証人として提出されています。が、これでは顔は判然としません。勿論、私とは別人としか言いようがありません。
 ところで、検察側は上記計15枚の写真のうち、弁護側にコピー提出していた1枚を除いた4枚に、多分コンピューター捜査をほどこして、その弁護側証拠に似せた顔に作り変え、それを公開したのです。つまり、本来の私の写真の公開ではなく、それに上記証拠の特徴のいくつかをもった顔へと変造したものを公開したのです。そうした変造・操作をはばかるように検察は、サッサッ、チラッチラッという汚口を使いました。
 モニターTVを見ていた私もびっくりでした。実に薄気味の悪い、言うなれば「狂気のただよう顔」が次々と開示されたからです。おまけに明らかにインチキというのを示していました。口ヒゲつきの写真だったものから口ヒゲが消え、他方、口ヒゲなしの写真は口ヒゲつきになり、髪の長さまで現在のそれとそっくりとなっていたのです。----私はネパールに行って、坊主のところと関係するようになったのを記念して、一旦、坊主刈りにしました。と同時に、口ヒゲもそったのです。その写真はそれから10日程たってからのもので、イガグリ頭、口ヒゲなし、仮に「坊主の修行をしている」と言ったものとしても十分、通用する時期のものでした。

 わき道にそれた解説はどうでもいいとして、とにかく実に薄気味の悪い写真のディスプレイでした。この写真は結局、弁護士側からの申し立てが受け入れられ、証拠取り消しとまりました。「(写真を複製してパスポート写真サイズへと作ったものと検察側は言っているが)複製した以上、証拠能力に問題あり」というのが判事の裁定理由でした。しかし、モニターTVを通して陪審員の脳裏にうえつけられたであろう、“Mr.菊池と同一人物の可能性大なり”という強烈なイメージは、後に言葉では否定されるとしても、やはり、かなり不利に作用するものと考えます。
 悪いイメージということでは、折しも、デンバーではオクラホマ爆弾事件の裁判が、ニューヨークでは世界貿易センター爆弾の裁判が行われており、そうしたニュースが毎日流されています。それを知った上でしょうが、FBI証人の中には、対テロ・反テロをむやみやたらと強調する者もいました。陪審員へのイメージ作戦であることは言うまでもありません。
 以上のことを考えると、法廷弁術などでは弁護側が圧倒的に有利なのだけど、イメージ操作などで検察側がやや有利、というのが第三週というところでしょうか。
 ちょっとくり返しになることも恐れずにまとめると次のようになるでしょう。
 弁護側による検察証人に対する追及のなかで検察が冒頭陳述の中で犯人は私であるとした論理の主要ポイントが揺らいでしまいました。検察側の最大の拠り所であり、動かしがたい物証であった指紋も、ジャカルタ警察指紋班のいいかげんな言動や物証のうさんくささを浮き彫りにしてしまいました。
 冒頭陳述の主要論理がぐらついてしまった上に、この事件を担当し、公判廷でも検察を支えているFBIエージェントが証人に工作していたことも明らかになってしまいました。それで、最後のあがきとでも言うべく、修正写真の開示という汚い手段をうってきたのです。
 そんな状況だったら、「文句なしに勝ち!」なのですが、判事の証拠不採用の裁定理由が出てくる理由、つまり弁護士が公判廷においては一旦証拠として公開することに合意したという失点があります(弁護側が同意しなければ、検察は証拠を開示することはできないのです)。つまり、汚い手段を許すことになった、こちらのミスをも考え合わせなければならないのも、かなり深刻に把え(*ママ)ねばならないと私は考えているからです。

 以下、公判と関連したエピソードを幾つか。
 ----検察側が一時的に座席にシフトしたことがありました。H弁護士が証拠として提出するため、まずV検事書類を提出。老眼のV検事はそれを突き出しように読んでいたのだけれど、尋問を続けていたH弁護士はそれを読み終えて突きかえしていると思ったのか、V検事の手から取り上げてしまったのです。
 このことからV検事がH弁護士の態度をここごとくに反発し、みにくい有様をさらすというハプニングがあり、みんなの失笑をかうということがありました。
 ----例の「奪還騒動」のせいか、公判に入ってから行き帰りのルートがめまぐるしく変わっています。おかげで私は拘置所←→裁判所の決まりきったルートではなく、いろんなところの「観光」を楽しませてもらえるということになっています。例えば、ポトマック河畔公園の中(わき道?)をくねくねと走ったり---春だったらどんなに桜がきれいだろうな...---、アーリントンに入ってからわざわざ河沿いにずっと走り、林の中を抜けて(実に紅黄葉が美しい!)気がついたら拘置所の近くにきていたり、などなど。
 ----ただし、一回ひどい目にあいました。裁判所の地下の仮監を出るとき、“今、腰に巻くチェーンがない、上に行けばあるから、それまで後ろ手錠(もちろん足錠をつけた上でのハナシ)”ということだったのですが、上にいったら今度は“チェーンを積んだ車は全て出払っている、な〜にしばらくの辛抱だ”とそのまま車に押し込まれてしまいました。そもそもこの護送車は、乗用車の全部シートと後部シートの間に仕切りパネルがはめ込んであり、後部シートに座らされる私たちは膝がつかえるために正面をむいて座ることができません。それでも前手錠だと、背中の上部はほぼ背もたれに密着させることができます。ところが後ろ手錠のため、密着させえたのは(運転席の後ろに座らされたこともあって)左の肩からヒジまでのみ。当方の事情を理解していたためか(?)、この運ちゃん、ポリスの特権を乱用して車線変更、路肩走行、割り込みなどすごい運転。その揺れに肩からヒジだけの密着で対応しようとするものだから私の左手はたちまちしびれだしてしまい、拘置所へたどりついた頃は、かなりの感覚喪失状況、手錠から解放された後、しばらくマッサージせざるをえませんでした。言うまでもないでしょうが、この日に限って外の景色は私の脳にはなんら反映しませんでした。
 ----金曜日の公判午前の部が終わって地下の仮監へ戻ったら、なんと昼食(用のサンドイッチ入り袋)はもうなし。私自身の体験・目撃としてこれが三回目。これまでの二回は同房者と分け合って食べたりしてしのいだが、この日は同房者はすでに拘置所へ帰っていた(し、在房していても食べ終わった後だったでしょう)。
 何故こういうことが起こるのかというと、USのポリスの腐敗のため。つまり本来は頭数どおりにあるはずの袋が、顔見知りの者(?)には二つも与えられたりするため、足りなくなってしまう。
 おかげで、午後の法廷は腹ぺこで大変だったのですが、良いことも。それは弁護士側が手配してくれたのか、普通の人が食うバーガーランチが用意されていたということ、うまかった。けど、この時は「5分間のみ休廷」ということだったので、味わっている余裕はなく、とにかくムシャムシャほおばっては飲み下し。なんとか食べ終わって、出廷を待っていたら、もう今日はこれで終わり、だって。それならそうと言って欲しかった。あははは....



;;準備号8 1997年11月29日発行 より
////////////////////////////////////////////////////////////////////////<11.29 城崎さんと共に浮かぶ夕べ 資料集>

A 共に浮かぶ会の皆様
[この手紙は米国からFAXで送られ、不鮮明なために欠落などの可能性がありますがご容赦ください---浮かぶ会]


 まず、会の皆様をはじめとしていろんな方々から力強いご支援・励ましをうけながらそれに十分に応えられなかったことをお詫びいたします。
 すでにご存じのことと思いますが、訴因4つすべてにおいて有罪という評決を許してしまいました。
 公判の第四週は、私の印象を許してもらうならば、合衆国による策謀=茶番で終始したというところです。
 前の週の終わりにH弁護士が、「数多くの申し立てをして検察側証人の何人かを排除する。....」という意味のことを言っていました。したがって、判事が「月、火は休廷で陪審員は水曜に....」と言ったけど、月、火もしくはそのうちの一日は陪審員抜きでの法律論争が闘われるものと私は考えていました。(このことで私は、支援、傍聴にかけつけて下さっているYさんから朝寝の自由を奪うということを許してしまいました。)
 裁判そのものに触れる前に、舞台裏での茶番である第二の散髪事件に触れなければなりません。
 私の収容先であるアーリントン拘置所の11A区では月曜が散髪日となっています。(拘置所のパンフでは、被収容者は月一回散髪することができる旨、書いてあります。が、それはあくまでもパンフの上のことであって、私に限って言えば、申し込んで無視されることがしばしばです)
 上述したように月火は出廷するものと考えていたのですが、ま、申し込みだけでもしておくか、出廷無しでかつ散髪オーケーということならもうけものということだろうという気持ちでした。しかし、月曜の出廷はなし。他方、他の者の散髪は大体いつもの時間に開始されたようでした。けど、私には声はかからず。ああ、またすっぽかしかと思っていました。
 「散髪だ」という声がかかったのはかなり遅くなってから。えっ、これから....なんとなく嫌な予感がしました。なにか口実をつけて断ろうか、という考えもチラッと浮かびました。しかし前の散髪から6週間経って大分伸びているし、かつ何よりも公判があとどれ位続くのかの見通し、メドも立っていない情況でしたから、このチャンスを活かすことにしました。
 しばらく待って私の番。散髪屋はまったくの新顔。なるほどおしゃべりが全然聞こえてこなかったのはそのせいかと納得。
 開始したとたん、「しまった!」と思ったのですが、もうやめるわけににはいきません。散髪屋の手がふるえていたのです。これではとんでもないことやられかねないな、とこちらも内心びくびくもの。多少おかしくなってもかなわない、早いとこ無事に終わってくれることを願うのみでした。
 ちょっとたっては進行具合を見定めて....という感じでさっぱり進まないのです。そんなとき、突然「まだ公判中なのか?」と尋ねてきました。「そう。しかし、どうして知っているの?」と私が応えたとたん、看守が飛び出してきて、「早くしろよ!時間がないのだから、あと5分で終れ!」と言うと同時にすぐ近くでの監視体制に入りました。
 私は、「この調子では5分では終れないだろう。けど看守が看ていればこいつもそんな変なシバイはうてないだろう」と考えました。まったくうかつな話でした。
 しばらくして、これで終りと言ってきました。びっくり。耳のうしろからエリにかけてふさふさした髪が残っていたのです。「やられた! バカだな!」と後悔。というのも、あの散髪屋(囚人)はもちろん、そこの看守も護送の看守もみんなグルで、奇怪な姿を知っていても知らぬふりをしていたのです。にもかかわらず看守がいるからまだ安心だなどと考えていた自らのおろかしさ、甘い考え、....まったくバカとしか言いようがありません。幸いにも、火曜はナショナル・ホリデー。当然、出廷なし。そこでレクリエーションの時間に同囚に助けてもらって、このふさふさを切り落とし、うしろ首部に一線を画してもらいました。(*ママ=風の人準備号8で「一線を画してもらいました。」と記載されている)はさみが使えるのなら簡単なのですが、使えるのはT字形カミソリだけ。これでこうした作業をやろうとすればけっこう時間がかかる上、なかなかうまくいかないのは言うまでもありません。それでも、なんとか見れる程度にまでやってもらいました。助けてくれた同囚には感謝感謝。
 同時に、この調子でFBI・検査側の汚い策謀を乗り越えて絶対に無罪を勝ち取るぞと私の意気込みもあらたにしました。しかし。それは私の意気込みだけだったようです....。
 水曜からの公判が再開されてまたびっくり。
 まず、弁護士側からの申し立てが、言われていたのとはうらはらに、すごく少ないし、弱弱しい。更に、弁護側は当初20人余りも証人申請していました。すでにそのうちの何人かは取り下げていることはわかっていましたが、少なくとも(1)Mr.石田=Mr.菊池=私とする検察側のでたらめな論理にはっきりと楔をうちこみ、(2)インドネシア当局を中心とする指紋操作をより鮮明にさせるための証人を幾人かは呼ぶものと考えていました。しかるに、弁護側証人のインドネシア人は一人も来ないということがまず明らかにされました。あの軍部独裁の国では、弁護側証人として出てくるということはそれだけでも危険なことになるのです。加えて、US人も一人も呼んでいないということが示されました。
 代わって、国務省の対テロエージェント--検察側証人としてすでに出廷--を呼んで尋問するということになっていたのですが、T弁護士の