司法改革と獄中処遇改善の要望書(2009/10/2)

司法改革と獄中処遇改善の要望書
2009年10月2日      政治犯に対する不当な弾圧に反対する会
要望事項
1. 刑訴法255条時効停止規定の早急な見直しを!
①国外在留の時は時効を停止するという規定は、戦後直後の、海外渡航も自由にできなかった時代の産物である。今や国際的な司法協力・各国警察間の緊密な協力連携がいきわたっている時代・グロバール化の時代では事情が根本的に変わっている。時代遅れの規定である。改定の必要は制定時の担当者自体も認識していた。
255条の時効停止規定を廃止すべきである。
②時効停止規定は、無期限の規定であり、100年前の事件でも適用される事になる。これは時効規定自体を否定する。すぐには配しできないと言う事であれば、少なくとも、最低限、停止に期限をつけるべきである。無制限の適用は法を否定するものである。
2..時効廃止に反対する
  自公政権時代に法務省ポピュリズムを煽って時効廃止論を提起している。
被害者感情云々を隠れ蓑にして。
時効はなぜ必要かを冷静に論議すべきである。特に、被告側にとって、長年月の後の訴追は防御権・弁護の権利を基本的に奪われるに等しい。警察・検察は強大な権力を行使できるが、訴追される側の被告が反論しようにも、証言をえようとしても時間の経過により事実上不可能であり、権力側に一方的につごうのよい事態しか招来しない。
  冤罪の危険が大きすぎる。時効廃止論は警察・検察の権力強化と冤罪の発生を増大させるだけであり、反対すべきである。
3.裁判公開原則と言論の自由を圧殺する刑訴法281条の改悪条項を廃止せよ!
自民党(自公連立)長期独裁政権は打倒されたが、司法関係においてこの数十年、特に小泉改革の時期にひどい改悪が行なわれてきた。
その最たるものが裁判員制度であるが、同時に裁判員制度導入のための関連諸法でも改悪が行われてきた。
281条3・4・5項が特にひどい。
裁判記録・資料(検察側資料や録画した取調べのDVDなど)を弁護人と被告が閲覧することに限定し、公開することを禁止し、広く新聞・雑誌・テレビなどに公開した場合には罰せられるという規定が裁判員制度の導入にあたってこっそりと作られた。
これまで、松川事件・八海事件など戦後の多くの裁判では、捜査資料・事件の資料を広く公開・検討することによって、多くの冤罪事件が暴露され、無罪を勝ち取る事ができた。この規定が意味するところは、これらの国民の広範な裁判批判の声を圧殺することでああり、法廷を密室化して、裁判公開原則を踏みにじるものである。松川事件のような裁判批判はできなくなる。報道も禁止されるのであるから恐るべき言論弾圧法である。明らかに憲法違反の法律である。
281条の3・4・5項は至急廃止しなければならない。
4. 獄中処遇の改善を急げ!
ここ20年あまりで、死刑・無期懲役判決が激増し、獄中で死亡するケースが増えている。
ろくに治療も検査もしないのであるから、長期に拘留されていれば死亡する危険は獄外の何倍・何十倍にもなる。獄死は、法によらない死刑であり、密殺である。
獄中で病気に苦しみ、治療を求める重症患者が多数いる。
日本赤軍の丸岡修もその一人であり、刑の執行停止をして民間での治療を受けさせるべきである。刑務所や拘置所・警察留置場に拘留されている獄中者の現状調査を至急行なうべきである。調査は、刑務所当局者に任せるのでなく、第三者機関を中心に行なうべきである。
国際的な人権監視団体のヒューマン・ライツ・ウォッチが、監獄の状況調査を申し入れているにも関わらず、日本の法務当局は拒否し続けてきた。調査・視察を至急許可すべきである。

刑訴法255条(時効停止規定)を廃止・改正せよ!

刑訴法255条(時効停止規定)の改廃を!
1. 海外在留を理由とした時効停止規定の恣意的運用をやめよ!
2. 期限のない時効停止規定は廃止せよ!
3. 時効停止規定に期限を設けよ(無期限停止など許されない)
4. 時効廃止絶対反対!


我々が今、直面している問題

現在、重信さん、丸岡、和光、西川君等日本赤軍よど号メンバーが30年以上前の事件で逮捕、起訴され、「海外在住」を理由に、時効が停止し、20年、無期といった求刑、判決が行われている。
これは戦後の階級闘争の歴史、裁判闘争の歴史に例を見ない事態である.
われわれはこの異常な重刑攻撃に対応しなければならない。
戦後の階級闘争、裁判闘争の中で時効問題はあった。これを総括し、その問題点を明らかにし、法曹界に提起し、30年前の事件に「時効停止」を機械的にあてめる法的問題点を明らかにして批判し,法曹界論議を起こし、更に広く社会的に批判の世論を広めていく必要がある。


①公訴時効制度は被告人の利益を図るものである。

1公訴時効の本質論
実体法説によれば、公訴時効は、時間の経過によって社会及び被害者の刑罰要求が消失する。
訴訟法説によれば、公訴時効は、時間の経過によって有罪、無罪の証拠が散逸することを理由とする。
競合説によれば、公訴時効制度は実体法的性格と訴訟法的性格を併せ有する。
犯罪の社会的影響の微弱化による実体法的な刑罰権の消滅が、訴訟法に反映して消極的訴訟条件になる。(団藤重光・新刑事訴訟法綱要7訂版)とするのが通説的説明である。
「可罰性の減少と証拠の散逸とによって、公訴を追行することが不当になる」(平野龍一
刑事訴訟法153頁)
最近の新訴訟法説は,以上の諸説がいずれも処罰する側に立った見解であると批判し、むしろ被告人の利益の為の制度と捉えよう(坂口裕英、「公訴の時効について」法制研究26巻4号,田宮裕「公訴時効についての2.3の問題」ジュリスト206号30頁、松尾「公訴の時効」刑訴法講座1巻217頁、佐々木≪公訴時効についての覚書)司法研検収書15週年論文集下412頁)とする。
これによれば、公訴時効は、1定期間訴追されていないという事実状態を尊重して国家がもはやはじめから訴追権そのものを発動しない制度である(田宮前掲33頁)あるいは事件ののち起訴までの迅速な裁判の1つの保障であり、処罰される側の防御権を保障する制度であるとする。(坂口/前掲259頁)
このことについて三井誠氏はその著「刑事手続法Ⅱ」117頁で、犯人が一定期間訴追されない事実状態を尊重し、国家の訴追権行使を時間の面で合理的範囲に限定して、個人を保護
するのが公訴時効制度であるとする見解があり、新訴訟法説と呼ばれる。と述べている。



②公訴時効の停止について
刑事訴訟法255条
犯人が国外にいる場合又は犯人が逃げ隠れているため有効に起訴状の謄本の送達若しくは略式命令の告知が出来なかった場合には、時効は、その国外にいる期間又は逃げ隠れている期間その進行を停止する。

重信房子さんをはじめ丸岡修、和光晴男、西川純君等は上記255条1項の適用で事件から30年の年月が経過して、十分に時効が適用されてしかるべきにも関わらず、逮捕、起訴され20年、無期の重刑攻撃をかけられているのである。

時効停止は1947,新刑訴法で旧刑訴法の時効中断を廃止する変わりに採用された。
その後殆ど適用例がなく,1962年白山丸事件で最高裁判例がでた。
1958年日共密出国グループ50余名が白山丸で帰国し、出入国管理令違反で逮捕、起訴された。時効を適用し、大阪地裁は免訴の判決を出した。検察側上告で1962年最高裁判決で255条一項を適用し、免訴判決を取り消した。

刑訴法255条前段の≪犯人が国外にいる場合は、実際上我国の捜査権がこれに及ばないことにかんがみると犯人が国内において逃げ隠れている場合とは大いに事情を異にするのであって、捜査官において犯罪の発生またはその犯人を知ると否とを問わず、犯人の国外にいる期間、公訴時効の進行を停止すると解することには、十分な合理的根拠があるというべきである。(1962年9月18日最高裁第3小法廷)

この判例によって国外在住は時効停止が適用されるようになった。
しかしこの判例には刑法学者や弁護士から反論が寄せられ、刑法学会の論争となった。
その後この種の事件が無く法学論争は下火になったが近年日本赤軍よど号メンバーの逮捕起訴で再び255条の時効停止が適用され、重刑攻撃の法的根拠となっている。

1960年代から40年以上経ち時代は大きく変わっている。我々はこの時効停止条項の適用の問題点を明らかにし、刑法学会,法曹界に論争を巻き起こし255条適用の不当性を世論とする必要がある。重信さん、丸岡さん等に対する不当な重刑攻撃を糾弾し、彼等を生きて出獄させねばならない。

最高裁判例(1962.9.18)について法学論叢(京大法学会75巻第3号)で批判がおこなわれている。

  • ―前略

刑訴法上、時効の中止事由としては、
イ 当該事件についてした公訴の提起
ロ 犯人が国外にいる場合(255条1項前段)
ハ 犯人が逃げ隠れているため、有効に起訴状の謄本の送達若しくは略式命令の告知が出来なかった場合(同項後段)
最高裁は、国外には我国の捜査権が及ばないから、犯人が国外にいる場合は、そのことだけで、時効は停止するという。
おそらく最高裁は国外に犯人がいる時は訴追機関が捜査の端緒を掴み、犯罪を覚知し得る機会に乏しく.且つ、捜査の端緒を掴んでも、捜査の遂行はほとんど不可能だから、円滑な公訴権の実現がなしえぬのを通例とし、かくては、国外に犯人がいるという一事により、犯人をして訴追機関の追及から容易に免れしめ、不当に時効の利益を享受せしめることにことになるからだというのであろう。
しかし、訴追機関が捜査の端緒を掴み、犯罪を覚知し得る機会に乏しいから、国外にいることをもって、当然、時効を停止するというのは、あまりに抽象的な、時効の本質から離れた論議だと思われる。何故なら、時効を停止しておいたら、捜査の端緒を掴み、
犯罪を覚知し得る機会に恵まれるかと言うと、証拠の散逸等とあいまって、必ずしもそういうことにはならないと思われるのである。特に犯人が国外で犯罪を犯し、そのまま国外にいる場合にあっては、時効を完成させずにおいても、捜査の端緒を掴み犯罪を覚知し得る機会に乏しく、且つ、公訴権行使が不可能か、又はこれに多大の困難性を伴うことは犯罪と犯人が国外にある限り変わりはない。
犯人が国外にいる間、時効を完成させないでおけば、将来偶然の機会に捜査の端緒を掴み、犯罪覚知の機会に恵まれることは少数ながらあるとはいえよう.しかしこの機に少数の場合を予測して、ただ犯人が国外にいさえすれば、何十年でも時効が進行しないと言う、あまりに時効制度からかけ離れた解釈だと思われる。
時効制度は、継続した事実状態の尊重を中核とし、付随的に証拠の散逸をも考慮したものと解する限り、時効の利益の享受に関しては、右の趣旨に基ずき、1つの制度として、出来るだけ犯人に公平な制度の運用がなされなければならないと考えられる。.捜査官の犯人及び犯罪事実の知,不知を問わず、1律に犯人が国外にいることをもって、当然の時効停止事由だと解することは、時効の停止によって捜査権の行使をなしうる少数の場合を考慮して、犯人が国外にいる時は、本来なら時効期間を満了するに足る期間の経過があっても、時効が完成しないと解することは、制度の運用上公平さに欠け、時効の本質とも相容れないものであると考える。
最高裁や通説の見解に従えば、国外犯の場合や、本件の様に、国外に出たこと自体が犯罪となる場合に、犯人が国外にいる限り、永久に時効の完成をみないことになり、時効制度の適用は無いに均しくなってしまうし、国内犯でも勤務先の都合等により、1時、国外に移り住んだ様な場合や、更に国内に共犯者がおり、捜査官に発覚することなくして、時効期間を経過していたとすれば国外にいた犯人は、そのことだけで時効の利益を享受し得ないと言う不合理な結果を招来する。
刑訴255条を公訴時効制度を定めた刑訴法上の例外であると解するにしても、その解釈は,時効の本質や時効の利益の公平な享受と言う原則等に基いて、なされなければならない。
しかる時は、右の解釈に当たっては。犯人処罰が原則であるとして、公訴時効の規定はその例外を定めたものと解し、前段の犯人が国外にいる時は、そのことだけで、右の原則に戻ると解するのは妥当ではなく、又、前段は例外に例外を定めたものとし、実際上生ずる不都合をやむおえぬものとして放置することも妥当でない。一定の期間が経過した後は、これを訴追しないことが、被告人のみならず、国家社会の利益にもなるとするのが時効制度本来の趣旨である。従って、前段は、右の制度にもとずくことが不合理であり,かつ、社会正義の実現に反すると考えられる場合にのみ適用されるべきである。
犯人が国内で罪を犯して後、国内にある場合に、捜査官が犯人及び犯罪事実を知らずに時効期間が徒過してしまえば時効は完成する。犯人が国外にいる場合には、犯人が国外で罪を犯してひき続き国外にいる場合、国内で罪を犯して後、国外にいる場合、出国事態が犯罪で、その後ひき続き国外にいる場合が考えられるが、右いずれの場合も捜査官が犯人及び犯罪事実を知らなければ、犯人が国内で罪を犯して引き続き、国内にいる場合を特別視する理由は無い。
これを抽象的な捜査権の有無,ひいては,抽象的な公訴権の有無を持って説明することの
妥当でないことは、既に述べたとうりである。捜査官が偶偶犯人及び犯罪事実を知ったか否かで時効停止の有無を決するのは、偶然の事実により、犯人の利益、不利益を決することになるとの批判があるかもしれないが、それは国内で罪を犯して犯人が引き続き、国内にいる場合と何ら変わるところがない。
結論として、私は、この最高裁の判決に対しては、賛成し難いのである。(1964.5 遠藤
寛 司法修習生)京大刑事判例


丸岡裁判について。
航空機強手等の処罰に関する法律違反,旅券法違反(1997年4.22)東京高裁判決
(刑訴法255条前段の適用の有無)
所論は、公訴時効制度の立法趣旨は証拠の散逸誤判防止にあるところ、刑訴法255条前段の「犯人が国外にいる場合」をその文言どうり解するならば公訴時効の最長期間である15年を越えてもなお時効が完成しない場合もあることになるが、いわゆるハイジャック犯についてはハイジャック防止に関する国際条約が締結されていて、航空機の登録国だけでなく到着地国にも裁判権が有るなど国際的規制が確立していること、国際司法共助が整備されていることからすると、刑訴法255条1項前段の「犯人が国外にいる場合」は制限的に解釈すべきであり、原判示第一及び第二の事件について同条項を適用すべきでない、と言うものであり、原審段階と同じく、右の「犯人が国外にいる場合」には、右各事件のように犯人が犯行直後から国外にいることが明らかである時を含まないと主張する趣旨と思われる。しかしながら、右規定は、犯人が国外にいる場合には捜査及び裁判手続を進行させることが困難であることに着目して設けられたものと解されるところ、近時、航空機内で行われた犯罪その他ある種の行為に関する条約、航空機の不法奪取の防止に関する条約、民間航空の安全に対する不法な行為に関する条約等が締結され、ハイジャックに対する国際規制が次第に整備され、犯人引渡あるいは国際捜査共助等の国際司法共助が締約国間において実施できるようになったとはいえ、いまだ未締約国や地域があり、ハイジャックの犯人が他国に潜伏して容易に検挙されていない状況であると認められるから、右規定を所論のように制限的に解すべき合理性があるとはいえない。所論は、近時の状況からすれば、犯人が国外にいる場合をことさら国内にいる場合と区別する必要はないとする趣旨と思われるが、そうであるならば犯人が犯行後国内から逃亡して国外にいる場合も右規定を適用すべきでないと言うことにならざるを得ず、右規定を空文化するそのような解釈は到底取り得ない所であって、諸論は採用しがたい。


刑事手続法Ⅱ  三井 誠
公訴時効の存在理由
実体法説 時の経過により被害感情・応報感情が薄れるなど犯罪の社会的影響が弱くなり、未確定の刑罰権が消滅する。
訴訟法説 時の経過により証拠等が散逸し、適正な裁判の実現が困難になるという証拠収集上の制約。
競合説  可罰性の減少と証拠の散逸とによって訴訟を追行することが不当になる。
新訴訟法説  これに対して、以上はいずれも国家の側に立つ見方であるとして、犯人が一定期間訴追されない事実状態を尊重し、国家の訴追権行使を時間の面で合理的範囲に限定して個人を保護するのが公訴時効制度である。
現実がどうであれ、一種の擬制を行って一定の期間を設定し、これを区切りに訴追の可能性を断ち切り、一般国民の自由を含む個人の利益を図ろうというのである。制度の「存在理由」とはこのようなものであり、控訴時効期間の設定は政策的な立法判断であることを自覚する必要がある。

公訴時効の停止
① 当該事件につき公訴が提起された場合。
② 犯人が国外にいる場合又は逃げ隠れているため起訴状謄本の送達が不可能な場合。
刑訴法225条1項前段は,後段の「逃げ隠れ」の場合とは異なって、単に「犯人が国外にいる場合は、時効は、その国外にいる期間その進行を停止する」と規定する。文理上は、設問の後者の解釈は出てこない.しかし、本条の時効停止規定が事実上の訴追の不能・困難という訴追障害にその根拠を置くからには、その前提として検察官が起訴可能な程度に犯罪事実及び犯人を覚知していることを要するとの限定解釈も成り立ちえなくはない。
(白山丸判例に関して)国際共助等による活動の範囲・権限の変化、国際交流による海外渡航の活発化等にかんがみると、後段との対比において、時効停止を訴追を免れるために積極的に海外へ「逃げ隠れ」した場合に限るなど、一定の工夫を要する時期に来たといえよう。
現に、既に古く1965年、刑法全面改正の作業の過程で、時効停止に限定を咥える必要が指摘され、具体的方法として、①時効停止期間に最高限度ををもうける。②停止期間の停止の制度を設ける.③公訴時効について中断の制度を設ける。等の案が出された。
現時点で改めて、立法的な手立てが模索されても良いと思われる。


A。時効問題についてはまず、新訴訟法説に立ち、被告人の利益の立場から時効を論じねばならない。
白山丸事件の最高裁判例は「海外在住」が時効の停止にあたるのは、捜査権が及ばないのひと言につきる。
それから50年ほどの歳月が経って世の中は一変した。海外には国内と変わらないぐらいに簡単にいける。捜査も国際協定によって各国警察の協力が得られる。現に日本赤軍の大半は国外で逮捕され、強制送還されている。海外に出てしまえば国内警察の手が及ばなかった昔とは全く違うのである。
丸岡裁判で東京高裁はこのあたりの事情を認めている。わずかに国際協定に未加盟国があるといううことで捜査権が及ばない理由として弁解している。
この反論は弱いものである。国際協定の未加盟刻は何カ国あるのか、
30年まえの事件を起訴する根拠としてはあまりにも薄弱である。
ハーグ事件は34年前の事件である。時効は10年である。重信判決は20年である。
あらためて公訴時効の存在理由が問われねばならない。
検察官の訴追行為には、訴訟法上、色々な制約が着いている。これらの制約の多くは,被告人の利益のために設けられたものであり、訴追行為を時間的に制限する公訴の時効も、その一つと考えることが出来る。国民はこの時間的制限によって、一定時間を経た事件を理由に起訴されるという危険を免れており、公訴時効には、このような救済的機能のあることを忘れては成らないない。坂口裕英 法制研究26巻4号
かって私は、「事件処理遅延の防止」と「公訴権乱用の防止」が、刑罰権の行使を時間的に制限する公訴時効制度の真の存在理由で得あると主張した。-------佐々木史朗氏もいわれるように、時効制度に決定的な利益は、基本的な人権に関係してくる訴追される側の利益でなければならない。(坂口裕英、時効制度の改革 ジュリスト438)


A。 時効成立事件はどのようなものか
①3億円事件                 7年
朝日新聞西宮支局襲撃事件(殺人/傷害)  15年
③ 99年1年間で時効となったもの。
殺人 (15年)        60件
強盗致死(15年)        9件

上記時効の成立例と比較すると海外にいたというだけで、とっくに時効の成立している30年前の事件を起訴するのは被告人の利益という公訴時効の根本的立場を踏みにじる、ためにする行為である。ハーグ事件にしても誰も殺してはいない。淀号ハイジャックにしても1人も殺すことなく、航空機1っ機をかっぱらったでけである。3日後には返している。

B.公訴時効停止に関して
  よど号メンバーの場合。ピョンヤン滞在は政治亡命者としてである。彼等はカンボジヤのシアヌーク殿下と同じ亡命村に滞在したのであり、北朝鮮政府の扱いも亡命者のそれであった。政治亡命は権利である。これが時効停止の適用対象となるのか。これが時効停止の対象となるなら政治亡命を認めないことになる。又北朝鮮を国家として認めないことにつながる。
日本赤軍についても同じことがいえる。彼等はパレスティナ解放闘争に参加した国際義勇軍であり、その作戦行動はパレスティナ解放機構(PLO)構成員であるPFLPの指揮下で行われた。

C。参考
新訴訟法説の支持者
坂口裕英   時効制度の改革                     福岡大学
       控訴の時効
       控訴時効についてー混合説批判
田宮 裕   公訴時効についての二三の問題 ジュリストno206 1960.7 北大教授
       日本の刑事訴追
佐々木史朗  刑事訴訟と訴訟指揮           東京地裁判事、最高裁課長     
       観念的競合と控訴時効
田口守一   刑事訴訟法  第4版補正版
熊本典道   観念的競合犯の公訴時効  警察研究 38巻9号  静岡地裁判事補
能勢弘之   公訴の利益                   北大法学論集
金山 薫   公訴時効の有り方   別冊判例タイムス         判事補
松尾浩也   公訴の時効   刑事訴訟法講座1            東大教授
       刑事公訴の原理  
    

裁判公開原則と言論の自由を圧殺する刑訴法281条の廃止を!!

 裁判公開の原則を覆し言論統制を強化する刑訴法281条改悪に断固反対する
これでは裁判闘争も報道もできなくなり、ますます冤罪をふやすだけだ!!

2009年5月11日       政治犯に対する不当弾圧に反対する会

重信房子さん、西川純さん、和光晴生さん、丸岡修さん(仙台で無期懲役服役中)、アメリカで冤罪で30年の禁固刑で服役中の城崎君等、旧日本赤軍等(脱退した人も含む)の救援活動を続けている中で、最近刑事訴訟法281条の改悪を知りました。

 我々裁判闘争支援者が裁判資料をほとんど見れなくなってきているのです。
 疑問に思っていたのですが、いろいろ調べていると、2004年(平成16年)に、刑事訴訟法281条の改悪がされていたことがつい最近わかりました。
 「昔と違って最近は資料を支援者やマスコミなどにも簡単に見せることができなくなったんだよ」とは聞いていましたが、よく調べてみると、この改悪が重大な問題である事がようやく理解できました。
 聞いた当初はそれほど重大な問題だとは思っていませんでした。
インターネットで調べてみると、この刑訴法281条改悪に対する批判の声があふれていました。
言論統制、裁判批判報道(冤罪の暴露等)の弾圧が可能となり、かって我々が知っていた頃の裁判闘争などはほとんど罰せられる可能性があることがわかってきました。
 法律の専門家でもないので、法律的な詳細はわかりませんが、以下にこの改悪された刑訴法の条項を紹介し、素人の考えではあるが検討してみたいと思います。


刑事訴訟法第281条改悪の条項』

第 281条の 3〔開示証拠の管理〕
弁護人は,検察官において被告事件の審理の準備のために閲覧又は謄写の機会を与えた証拠に係る複製等(複製その他証拠の全部又は一部をそのまま記録した物及び書面をいう。以下同じ。)を適正に管理し,その保管をみだりに他人にゆだねてはならない。

第 281条の 4〔開示証拠の目的外使用禁止〕
(1) 被告人若しくは弁護人(第 440条に規定する弁護人を含む。)又はこれらであつた者は,検察官において被告事件の審理の準備のために閲覧又は謄写の機会を与えた証拠に係る複製等を,次に掲げる手続又はその準備に使用する目的以外の目的で,人に交付し,又は提示し,若しくは電気通信回線を通じて提供してはならない。
一 当該被告事件の審理その他の当該被告事件に係る裁判のための審理
二 当該被告事件に関する次に掲げる手続
 イ 第一編第十六章の規定による費用の補償の手続
 ロ 第 349条第 1項の請求があつた場合の手続
 ハ 第 350条の請求があつた場合の手続
 ニ 上訴権回復の請求の手続
 ホ 再審の請求の手続
 ヘ 非常上告の手続
 ト 第 500条第 1項の申立ての手続
 チ 第 502条の申立ての手続
 リ 刑事補償法の規定による補償の請求の手続

(2) 前項の規定に違反した場合の措置については,被告人の防御権を踏まえ,複製等の内容,行為の目的及び態様,関係人の名誉,その私生活又は業務の平穏を害されているかどうか,当該複製等に係る証拠が公判期日において取り調べられたものであるかどうか,その取調べの方法その他の事情を考慮するものとする。

第 281条の 5〔開示証拠目的外使用の罰則〕
(1) 被告人又は被告人であつた者が,検察官において被告事件の審理の準備のために閲覧又は謄写の機会を与えた証拠に係る複製等を,前条第 1項各号に掲げる手続又はその準備に使用する目的以外の目的で,人に交付し,又は提示し,若しくは電気通信回線を通じて提供したときは,1年以下の懲役又は 50万円以下の罰金に処する。
(2) 弁護人(第 440条に規定する弁護人を含む。以下この項において同じ。)又は弁護人であつた者が,検察官において被告事件の審理の準備のために閲覧又は謄写の機会を与えた証拠に係る複製等を,対価として財産上の利益その他の利益を得る目的で,人に交付し,又は提示し,若しくは電気通信回線を通じて提供したときも,前項と同様とする。

第 281条の 4〔開示証拠の目的外使用禁止〕
被告人又は被告人であつた者が,検察官において被告事件の審理の準備のために閲覧又は謄写の機会を与えた証拠に係る複製等を,前条第 1項各号に掲げる手続又はその準備に使用する目的以外の目的で,人に交付し,又は提示し,若しくは電気通信回線を通じて提供したときは,1年以下の懲役又は 50万円以下の罰金に処する。

 あまり、この条項を詳しく取り上げた記事やHPがないのであえて掲載しました。

 私はこの規定を改めてじっくりと読んで見てビックリしました。
 何というえげつない法律を追加したもんだと思いました。
 法律は素人なのでこれから書く事については厳密さは欠けるかもしれませんが、ご容赦ください。アドバイスも歓迎です。

 上記の規定を解釈すると、係争中の裁判において、検察側が出した資料(調書・証拠物件・取調べ録画DVD等)を被告や弁護人が公開したり、テレビ・新聞などで報道することはできないということになるのではないか?当然被告を支援する支援者や肉親等に対しても閲覧・公開してはならないということになる。 これでは逮捕や起訴は不当だ、と訴える事すらできなくなるのではないか?
 現にこの規定が威力を発揮してきているケースが既に何件も出てきている。
 被告が冤罪を訴えるビラまきさえひっかかっかるんですよ。高知のバス運転手の事件(停車中のバスに白バイが突っ込んできて警官が死んだが、警察の証拠でっちあげでバスに責任があると実刑判決が確定してしまった。
 これはテレビでも放送されたので、よく覚えています。昨日も涙を流して無念の服役をする運転手に取材して事件を再検証・告発する報道番組をテレビでやっていました。
 警察がタイヤ痕を偽造した証拠は実験や鑑定でも明らかなのに、裁判所は警察・検察の主張を一方的に鵜呑みにして有罪・実刑判決を下してしまった。
バスに乗っていた大勢の高校生や教師の証言(バスは止まっていたという証言)も裁判所は無視した。
 しかもこれを訴えようと被告がビラまきすることも罪に問われるかも知れないと悩んでいるところもテレビで放送したのが、ユーチューブにも上がっています。
 この報道でも(係争中では)罪になるのではないかとTV局側も悩んだそうですが、あえて放送したといいます。
 他にも、ザ・スクープ等で取り上げられている事件は多い。
 ユーチューブには、共産党員の公務員のビラまきの裁判の取材もあがっていました。
 警察が公務員を尾行して隠し撮りしたビデオを公開するかどうかで弁護士も悩んでいるところが報道されています。
 この弁護士は、罪に問われる事も覚悟してあえて公開をした。この条項に真っ向から挑んでいる弁護士もいるのです。

 西川君のダッカ闘争冤罪(参加していない、アリバイもある)を主張している我々にとってもとても他人事とは思えません。
 冤罪はこの条項でますます歯止めが利かなくなるのではないかと思います。このような危険な条項に、日弁連がなぜもっと強硬に反対したり、国民に広報し訴える事をしなかったのか? 不思議でなりません。

 裁判が終了してしまってから資料を公開していては遅いのです。係争中にこそ、逮捕・起訴の不当や察罪を訴えたり、警察・検察のデッチアゲや証拠の不備・捏造等を暴露しなければ意味がないのです。裁判の中でだけ(法廷という密室の中でだけ)で訴えても、今のように反動化してしまった裁判所の現状では、被告・弁護人の主張が通るという事は、太いロープを針の穴に通すこことより難しいのが現状です。広く世間に無実を訴える事が最大の防御手段なのです。

 これらの条項は、個人情報保護という現代的な装いを凝らし、且つ裁判員制度をにらんだ布石と言われています。聞くところによると、この条項は、従来、検察側が抱え込んでいた証拠・資料を弁護側にも提供する、その代わり検察が提供した資料をきっちり管理しろ、という裁判員制度をにらんだ改革という装いを持ってもいるようです。従来に比べれば、検察が積極的に資料を弁護側に提供するというアメと引き換えに、その代わりしっかり管理しろ、弁護人と被告以外には見せてはならない、というムチをつけるものです。検察側の資料を開示するのは裁判の公開という大原則の下では当然のことなのに、それさえも出し渋ってきた事自体が犯罪的であるということは論を待たない。にもかかわらず当然の義務を検察が果たすということの引き換えに、弁護人と被告以外に見せるなというようなことは全く不当としかいいようがない。バランスシートとしては、検察側に一方的に有利な取引ではあるまいか?弁護士が、当たり前の便宜(検察資料)を提供されることで、国民の知る権利、裁判公開の原則をふみにじる代償を権力に引き渡していいはずがないではないか?係争中の裁判について、広く国民に警察・検察の不当を訴えることもできなくなる、報道もできなくなるのである。これでは多発する冤罪を防ぐ事などできはしない。法廷の密室の中で、冤罪を数多く作り出すシステムがフル稼働することになる。
 裁判員制度では、裁判員に選ばれた人は、欧米の陪審制度と同じように、裁判の内容を一切もらしてはならない、とされ、もらした場合は罰則があります。
 これは一見当たり前の規定のように思いますが、このことが281条の規定と連動していることに注目する必要があるのではないか。
 選ばれた裁判員が裁判の内容を漏らしてはいけないのであれば、当事者ではない支援者やマスコミ等が被告・弁護人を通じて得た資料に基づいて、検察側の主張を批判したり、でっちあげを暴露する事などとんでもない、ということになるのではないか?これでは、警察・検察の一方的な情報操作・垂れ流しだけがまかり通るということにならないか?
 こう考えてくると、この法律改悪の狙いが裁判批判の封じ込め・言論弾圧・権力機構強化にあるということは明白ではあるまいか?
 改悪に反対するある弁護士のHPにもこのような危惧が表明されていました。ここで無断ではありますがあえて引用させてもらいたいと思います。


http://homepage1.nifty.com/sendailaw/hihan.htm
「刑事裁判の批判は許されない?」
刑事訴訟法の大改革
 憲法は「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。」と定めています(31条)。刑事訴訟法は刑事裁判(手続き)のルールです。この刑事訴訟法が改正されました。

検察官が被告・弁護側に開示した証拠の利用を制限する
 改正された刑事訴訟法(平成16年5月28日法律第62号)が、同法281条の4,5として盛り込んだ、検察官が被告・弁護側に開示した証拠の利用制限は、これまでの冤罪(えんざい)事件の経験を踏まえたと言えるでしょうか

 改正法は、検察官が開示した証拠を、被告・弁護側が、裁判審理の準備以外の目的で使用すること。を全て禁止するものです。関係者のプライバシーを保護することなどが立法理由とされています。

過去の冤罪(えんざい)事件の教訓
 刑事裁判、特に冤罪(えんざい)を訴える事件では、強制捜査などの強大な権限と組織を持つ捜査機関と私人である被告人が対峙します。被告人は、弁護人の援助を受けるとは言っても、弁護人も私人で、その唯一の武器は法です。組織力でも、経済力、証拠収集力でも、彼我の格差は顕著です。

 そこで、冤罪事件では、被告・弁護団は、広範な国民に訴え、多くの人々の支援を受けた刑事裁判が展開されました。松川事件(汽車転覆致死 法定刑は死刑又は無期懲役)では、1審、2審は有罪でしたが、広津和郎(作家)氏らが裁判所外で「裁判批判」を展開し、最高裁判所で無罪となりました。八海事件、松山事件、甲山事件なども、多くの国民が関心を寄せ、刑事裁判で無実が明らかになりました。

改正法は真実の前に立ちふさがる障壁にならないか?
 改正案は、検察官が開示した証拠を、被告人・弁護人が、裁判所での審理やその準備以外に使用することを、全面的に禁止しようとしています。それでは、被告・弁護団は国民に証拠に基づく真実を示すことができなくなるのではないでしょうか。冤罪の悲劇を繰り返さない英知が求められています。

 改正法
 「被告人若しくは弁護人(略)又はこれらであつた者は、検察官において被告事件の審理の準備のために閲覧又は謄写の機会を与えた証拠に係る複製等を」「当該被告事件の審理(略)」「又はその準備に使用する目的以外の目的で、人に交付し、又は提示し、若しくは電気通信回線を通じて提供してはならない。」と定め、これに違反した被告人には「1年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する」としています。


日弁連の意見(2004年4月9日)
刑訴法改正法案から証拠の目的外使用条項の削除を求める会長声明

「被告人の防御権を不当に制約することは勿論、裁判公開原則や報道の自由とも抵触するおそれが大きい。」「権力行使の場である刑事裁判手続について、必要な情報を主権者である国民に公開して検証することを困難とさせるものであり、(略)『国民に開かれた司法』の理念に逆行する」。

 これを見ると、日弁連も一応は反対を表明していたようですが、強力な反対運動は組織できなかったかしなかったようです。ほとんどの国民が知らないうちにこのような重大な改悪がなされていたということになります。権力というのはいつもこういう汚いことをこっそりとやる。
 日弁連裁判員制度について、結局賛成するという態度をとってきた。(共産党系の自由法曹団等も賛成した。現在は延期を言い出しているが。)裁判員制度導入と、刑訴法281条改悪はいわばセットである。裁判員制度導入のためには、281条改悪が不可欠となる。本体に賛成して、「附則」に反対するという態度はとりにくい。日弁連の腰砕けの態度にはこのような背景が透けて見える気がする。
日弁連はズルズルと後退していってしまっているのである。


 実際に、この条項を適用した場合、松川事件・八海事件、松山事件、甲山事件等の場合、どうなっていたか?一度そのシミュレーションをやってみる必要があるのではないかと思います。被告・弁護人は裁判資料公開ができなくなり、支援運動自体不可能となっていたのではないか。被告・弁護人があえて資料を支援者に提供すれば罪に問われ、弁護士も有罪となれば弁護士もできなくなる。戦後の冤罪事件を具体的に考えてみると、この条項の真の意図が明らかになると思います。この法律の下では、松川事件や八海事件、松山事件、甲山事件等のような裁判闘争、支援闘争は不可能となり、冤罪を暴き、無罪判決を勝ち取る事はできなくなっていた可能性が高いのではないか?狭山差別裁判闘争等についても然り。2度とこのような裁判支援闘争ができなくなる。恐るべき法律といわざるをえません。これは戦後憲法の精神に基づいた刑法・刑事訴訟法を完全に覆してしまう、裁判の公開という原則を反故にしてしまう、重大な憲法違反の条項なのではないか。

 特に危惧するのは、弁護士の自主規制ということです。

 この条項にふれるからといって支援者やマスコミに情報を提供することを拒否する、自制するといった形の自主規制が増えるだろうということです。実際このような自主規制が増えてきていることを実感します。この条項の反動性を意識的に理解し、反対していく、無効化していくといった姿勢をもたない場合は、法律があるからと資料提供を拒んでしまうのは目に見えています。弁護士である以上、法律の条項に違反するということは実際上できないでしょう。権力の弾圧を恐れず、堂々と主張を貫くということは至難の技です。先にあげた共産党員の公務員のビラまき事件での弁護士の決断(警察の隠し撮りビデオの公開)は特筆されるべき決断だと思います。多分、共産党員・又は共産党系という背景があってこそできた決断ではないかと思います。そのような背景をもたない大多数の弁護士にとってはこのような決断は非常に難しい踏み絵になるのではないかと思います。改悪以前はとりたててどうということもなかったことが、重大な決断を迫られる、場合によっては懲役刑を受けるというこのことの重大さはいくら声を大にしても言い過ぎることはないと思います。弁護士を萎縮させるには絶大な効果をもちそうなこの法律の危険性を、日弁連も個々の弁護士ももっと反対の声をあげるべきではないのかと思います。この法律条項の撤廃を強力に、粘り強く求めるべきであり、国民に呼びかけるべきです。野党民主党社民党共産党なども、この条項の撤廃を強く求めるべきであり、自公政権打倒の暁には、真っ先に法律改正をすべきだと考えます。

 裁判員制度は、こういう改悪と一体となった制度であり、即決裁判(裁判のスピード化)によって十分な審議もなく、有罪決定し、死刑にしても多数決で決めるなど、まことにえげつない制度といわざるを得ない。この裁判員制度では、スピード裁判で短期間(3日から5日?)に決着させるため、従来のような冤罪批判、裁判支援闘争は事実上できなくなるだろう。市民の自治によって裁判を行なうという本来の陪審制度とは似ても似つかぬ、国・権力機構のお膳立てした「裁判」に市民を動員して重刑を科させる仕組みです。アメリカの陪審制度、ヨーロッパの参審制度とは根本的に異なる制度である。アメリカの陪審制度では、被告が陪審裁判か否かを選ぶ権利が認められているが、裁判員制度はこのような被告の権利などは一切認めていない。(アメリカの連邦地裁における刑事事件の陪審利用率は5.2%、民事では1.7%(97年10月1日から98年9月30日までの統計) 又、アメリカでは、陪審の評決は全員一致が原則、ヨーロッパでも2/3以上の多数決が必要だが、日本では単純多数決で死刑でも決定できる。(9人のうち4人が反対していても死刑にできる、ということ。この感覚は到底理解できない!!アメリカ人もビックリするだろう。)
 裁判員は、公判資料等は裁判官から説明を受けるだけで、自ら証拠や資料を読む必要はない、など、実質上お飾りといっても過言ではない。アメリカでも陪審裁判の弊害は指摘されており、誤審率は高く、この間、死刑判決を受けた囚人のうち、DNA鑑定などで無罪として釈放された人が数多く出ている。1996年にネパールで拘束され、FBIによって米軍機で米国へ「拉致」された城崎勉君は、1997年ワシントン連邦地裁における陪審裁判にかけられた。この陪審裁判がいかにひどい魔女狩り裁判だったかを我々は知っている。でたらめな証拠と証言であったにもかかわらず、彼は無実の罪で有罪宣告され、禁固30年の刑を受けた。陪審裁判はこのような危険な側面も併せ持っているのであるが、日本の裁判員制度はこれよりもひどい制度である。
 厳罰化誘導キャンペーンと一体となり、市民を重刑宣告の共犯者として仕立て上げるものではないのか?今まで、裁判員制度については、漠然としか考えてはこなかったが、
281条改悪など一連の司法改革(改悪)の流れの中でとらえると、恐るべき実体が見えてくる。
 西川君・重信さんらをはじめとする政治犯の裁判においては、これまでずっと「疑わしきは罰せず、被告人の有利に」という刑事裁判の原則ではなく、「疑わしきは罰せよ。検察側の有利に」というルールが事実上適用され続けてきた。その上にこのような一連の司法反動化が加わればどうなるか?
とてつもない、警察国家化が仕上げられることになる。これはまた憲法9条改悪にもつながる道である。
 我々は、刑訴法281条改悪に反対し、この改悪条項の撤廃を求めると同時に、この法律を実質上無効化する戦いを現実の裁判闘争において貫く必要があると考える。現在、裁判闘争に取り組んでいる全ての人々や諸団体に連帯と共闘を呼びかけます。

 2009年5月11日      政治犯に対する不当弾圧に反対する会

『風の人』復刻版について

『風の人』復刻版2を追加しました。
準備号8 (1997年11月29日発行) が1の途中で途切れているため、新たに、この箇所から追加しました。したがって、ここの箇所が1と重複していますが、ご容赦ください。
2で一応『風の人』復刻版は完了です。
今後は、城崎君だけでなく、獄中からの手紙などを掲載していく予定です。

『風の人』復刻版2

;;準備号8 1997年11月29日発行 より
////////////////////////////////////////////////////////////////////////<11.29 城崎さんと共に浮かぶ夕べ 資料集>

A 共に浮かぶ会の皆様
[この手紙は米国からFAXで送られ、不鮮明なために欠落などの可能性がありますがご容赦ください---浮かぶ会]


 まず、会の皆様をはじめとしていろんな方々から力強いご支援・励ましをうけながらそれに十分に応えられなかったことをお詫びいたします。
 すでにご存じのことと思いますが、訴因4つすべてにおいて有罪という評決を許してしまいました。
 公判の第四週は、私の印象を許してもらうならば、合衆国による策謀=茶番で終始したというところです。
 前の週の終わりにH弁護士が、「数多くの申し立てをして検察側証人の何人かを排除する。....」という意味のことを言っていました。したがって、判事が「月、火は休廷で陪審員は水曜に....」と言ったけど、月、火もしくはそのうちの一日は陪審員抜きでの法律論争が闘われるものと私は考えていました。(このことで私は、支援、傍聴にかけつけて下さっているYさんから朝寝の自由を奪うということを許してしまいました。)
 裁判そのものに触れる前に、舞台裏での茶番である第二の散髪事件に触れなければなりません。
 私の収容先であるアーリントン拘置所の11A区では月曜が散髪日となっています。(拘置所のパンフでは、被収容者は月一回散髪することができる旨、書いてあります。が、それはあくまでもパンフの上のことであって、私に限って言えば、申し込んで無視されることがしばしばです)
 上述したように月火は出廷するものと考えていたのですが、ま、申し込みだけでもしておくか、出廷無しでかつ散髪オーケーということならもうけものということだろうという気持ちでした。しかし、月曜の出廷はなし。他方、他の者の散髪は大体いつもの時間に開始されたようでした。けど、私には声はかからず。ああ、またすっぽかしかと思っていました。
 「散髪だ」という声がかかったのはかなり遅くなってから。えっ、これから....なんとなく嫌な予感がしました。なにか口実をつけて断ろうか、という考えもチラッと浮かびました。しかし前の散髪から6週間経って大分伸びているし、かつ何よりも公判があとどれ位続くのかの見通し、メドも立っていない情況でしたから、このチャンスを活かすことにしました。
 しばらく待って私の番。散髪屋はまったくの新顔。なるほどおしゃべりが全然聞こえてこなかったのはそのせいかと納得。
 開始したとたん、「しまった!」と思ったのですが、もうやめるわけににはいきません。散髪屋の手がふるえていたのです。これではとんでもないことやられかねないな、とこちらも内心びくびくもの。多少おかしくなってもかなわない、早いとこ無事に終わってくれることを願うのみでした。
 ちょっとたっては進行具合を見定めて....という感じでさっぱり進まないのです。そんなとき、突然「まだ公判中なのか?」と尋ねてきました。「そう。しかし、どうして知っているの?」と私が応えたとたん、看守が飛び出してきて、「早くしろよ!時間がないのだから、あと5分で終れ!」と言うと同時にすぐ近くでの監視体制に入りました。
 私は、「この調子では5分では終れないだろう。けど看守が看ていればこいつもそんな変なシバイはうてないだろう」と考えました。まったくうかつな話でした。
 しばらくして、これで終りと言ってきました。びっくり。耳のうしろからエリにかけてふさふさした髪が残っていたのです。「やられた! バカだな!」と後悔。というのも、あの散髪屋(囚人)はもちろん、そこの看守も護送の看守もみんなグルで、奇怪な姿を知っていても知らぬふりをしていたのです。にもかかわらず看守がいるからまだ安心だなどと考えていた自らのおろかしさ、甘い考え、....まったくバカとしか言いようがありません。幸いにも、火曜はナショナル・ホリデー。当然、出廷なし。そこでレクリエーションの時間に同囚に助けてもらって、このふさふさを切り落とし、うしろ首部に一線を画してもらいました。(*ママ=風の人準備号8で「一線を画してもらいました。」と記載されている)はさみが使えるのなら簡単なのですが、使えるのはT字形カミソリだけ。これでこうした作業をやろうとすればけっこう時間がかかる上、なかなかうまくいかないのは言うまでもありません。それでも、なんとか見れる程度にまでやってもらいました。助けてくれた同囚には感謝感謝。
 同時に、この調子でFBI・検査側の汚い策謀を乗り越えて絶対に無罪を勝ち取るぞと私の意気込みもあらたにしました。しかし。それは私の意気込みだけだったようです....。
 水曜からの公判が再開されてまたびっくり。
 まず、弁護士側からの申し立てが、言われていたのとはうらはらに、すごく少ないし、弱弱しい。更に、弁護側は当初20人余りも証人申請していました。すでにそのうちの何人かは取り下げていることはわかっていましたが、少なくとも(1)Mr.石田=Mr.菊池=私とする検察側のでたらめな論理にはっきりと楔をうちこみ、(2)インドネシア当局を中心とする指紋操作をより鮮明にさせるための証人を幾人かは呼ぶものと考えていました。しかるに、弁護側証人のインドネシア人は一人も来ないということがまず明らかにされました。あの軍部独裁の国では、弁護側証人として出てくるということはそれだけでも危険なことになるのです。加えて、US人も一人も呼んでいないということが示されました。
 代わって、国務省の対テロエージェント--検察側証人としてすでに出廷--を呼んで尋問するということになっていたのですが、T弁護士の論理、追及にぜんぜんサエがかけているのです。申請していたインドネシア人証人が何故これないのかUS側の初動捜査がなく、1年半近く後に初めて動き出したことなどを陪審に説明することもしません。加えて私が当然追求するものと思っていた、このエージェントのレポートにある箱(ロケット発射台-木製)を発注して作らせたという大工に関したことなどまったく触れずというありさまでした。
 他方、公判中、検察側に同席していたFBIエージェントへの尋問においても、そのでたらめな調書と証人たちの法廷証言との矛盾や「模擬法廷」なるもので「目撃」証人に私の座席位置を示したことなどを追求し、弾劾するのかと思っていたら、これもなんか形式的というか焦点がぼやけたウヤムヤ尋問で終ってしまいました。
 おいおいどうなってんのこれは?! これじゃ茶番だぜ?!...と思ったけど、これはあとのまつり。「これで全ての尋問を終了し、後は接辞のための法律家議論を判事室で....」という始末でした。
 最終陳述においてもそうしたあり方は続きました。とういうよりも更に輪をかけたような情況だったと私には感じられました。
 あの生彩のなかった検察側がわりときちんと論理をつくって(まさに作って!)陪審員に訴えているのに、T弁護士の方は全然サエがないのです。ほとんどが冒頭陳述の蒸し返し的なもので、新しく出てきたことをも取り入れて陪審員に説得していくという気概に欠けていたのでした。
 私は、少なくとも、(1)Mr.石田と私はまったく別人であることが法廷で明らかになったこと、(2)Mr.菊池もまた別人であることは明らか、唯一Pホテル元レセプショニストが“かわいさが残っている”といった新説をもって“覚(*ママ)えている”と言っただけ。しかしその論理は矛盾に満ちたもの、逆に別人であることを示す証拠は幾つもあること、(3)指紋に関しても検察側証人たちの発言はあまりにも多くの疑惑を残したし、別の角度からもいろんな形で多くの疑問を浮かびあがらせていること、(4)その他にも検査側ストーリーは幾つもの疑惑があること、そういった諸点を陪審員にたいして具体的かつていねいな解説をしていくものと考えていました。(ここではそうした具体的な指摘はしません。最終陳述をもっとつっこんで検討する必要があること、そして何よりもそうした諸点は控訴と大きく関係していることなどの理由からです)
 ところが、T弁護士の陳述は、それらの諸点に触れてはいるのですが全然するどさがないのです。冒頭陳述でH弁護士が展開したことの二番煎じ的なものでした。たとえて言えばみんなと一緒に力を入れて重い荷車を押しているように見せかけながら、実際にはそうしたポーズを作ることに力が注がれているだけで、押し方には全く力が入っていないようなものということができるでしょう。問題点をついているようで肝心なところが抜けているのでさっぱりサマにならず、当然ながら陪審員に訴える迫力はなし....といった代物でした。
 「本当?!」と言われるかも知れませんが、私はこのT弁護士の最終陳述の途中までは、自らの勝訴を信じて疑わなかったのです。上述の第二の散髪事件に示されるようにジタバタと悪あがきしていたのはFBI検察の方であり、自分たちの側はそうした策謀を打ちくだき、のりこえていくことができると確信していたからです。
 でも、散髪事件では看守達が共謀していたように、公判でもどうも弁護士までは(*ママ)グルになった茶番劇を演じていたのかもしれません。そこまで考察した上で対応策を考えるということは私にはとても出来ることではありませんでした。
 推測であれこれ言うのは良くないのですが、それを裏付けるようなことが起きています。
 評決が言い渡される前には、その内容は陪審員以外には誰も知らない---というのが原則です。ところが、評決言い渡しの前にT弁護士らが法廷裏の金網のところにきて、有罪を前提としたことをあれこれと私に説明したのです。陪審員が入る前の法廷でもT弁護士は「あとで陪審員有志と話がしたい」と申し出ました。更に、評決を聞いて私が暴れだす....とでも思ったのか、これまでの席順を変えて私を二人の弁護士ではさむようにした上で、二人の廷吏もすぐ近くに陣取るという念の入ったシフトでした。
 USクリントン政権の対テロ政策を誇示するための広大な茶番劇というところかと思わずにはおれませんでした。
 でも、くじけることなく、着実かつ確実な反撃をしていくつもりです。皆様にはひきつづき御支援をお願いします。
 97年11月15日
 城崎 生


「風の人」 創刊号(通巻9号) ‘97.12月号
  1997年12月14日発行  年間購読代千五百円
  4 城崎さんと共に浮かぶ会・神奈川
  5 郵便振替  00260・4・86033
  6  東京都港区新橋2−8−16石田ビル4F       救援連絡センタ−
  7  川崎市幸区古川町66                       関  博明
  8  大和市大和東3−3−7〜201(0462−61−8450) 桧森孝雄

              城崎さん、50才の誕生日おめでとう!

11・29の夕べ
 あのどしゃぶり中、12人の方々、何人かの社会部記者の方々が集まってくださいました。正直今時こんなに来て下さるとは思ってもいなかったので、なにがしかの友情を感じました。
 集いでは、陪審評決に立ち会われた救援連絡センタ−の山中さんのお話の後、米国の陪審制度と今回の裁判について喜田村弁護士からお話がありました。喜田村さんのお話は参考になるもので、文章にして下さいとお願いしています。近々には誌上に載せられると思っています。
 集いでは、たまたま来られていた菊村さん救援の方、レバノン日本赤軍救援の方、タイ田中さん救援の方から声を伺うことが出来ました。
 城崎さんからのメッセ−ジも届きました。
 最後に、集いのアピ−ル(前号掲載)を採択しました。アピ−ルは色んな言葉で、色んな国や地域の方々に送ります。

『風の人』創刊号となりました
 遅ればせですが、救援の姿勢と方向を少しは定められるかなと思っています。箇条書きにしてみました。
① 城崎さんの無罪主張を支持する。
② 城崎さんの自由意思による日本への帰国を求める。
③ 日米共同の「反テロリズム」国際専制政治による、ネパ−ルから米国への強制連行と拘束、及びデッチあげ裁判に抗議・反対する。
④ 城崎さんの獄中生活を援助・支援する。
⑤ 自立・対等の関わりで救援に参加する。
⑥ 世界中の多くの方々との共同をめざす。
 これらは多くの方々と交わる中で、より豊で実際に即したものになっていけるでしょうか。

城崎さんの現状
前号で城崎さんの拘置先を独断で明示しましたが、その後の城崎さんの手紙には、独断批判がなくホッとしています。多くの皆さんからの文通をなされることを望んでいます。
獄中処遇での嫌がらせがひんぱんに続いていることは前号までの記録に示されています。
米国で面会、文通されている方は弁護人関係を除いて1〜2名のようであり、それも間欠で英語によるものです。
一審の弁護人は、国選のタッカ−弁護士と他1名です。一審は、弁護人と城崎さんとの意志一致がなされないまま進んできています。城崎さんからの手紙では、予定されている量刑判決が、城崎さんの意向を無視して判事判決とされたと記されています。(米国では、陪審・判事のどちらかに量刑判決を委ねる選択権が被告側にあります。)
量刑判決以降、約一ヶ月間は現拘置所に在監しているようで、日本語によるスム−ズな文通が可能のようです(あてになりませんが、通常は3〜6日間で『塀』を越えます)。いわゆる刑務所に移ると日本語での文通は、数ヶ月を要すると思われます。日本語でクリスマスカ−ドでも送られる方は、どうぞ。なお、書籍類は全て出版元からの送付でなければ受け付けられません。
    Mr.TSUTOMU SHIROSAKI
       # 59724
       ARLINGTON COUNTY FACILITY
1435 N. VA 22201
U.S.A

山積みの課題の前で
次号から課題の整理と取りかかりの方向に着手したいと思っています。

(カンパ、ありがとうございました。心から。)

「風の人」2号(通巻10号)THE MAN IN THE WIND
THE SUPPORTING NEWSPAPER FOR MR.SHIROSAKI
風の人 タクラマカン砂漠の風はどんな味がするのだろう
No2(通巻10号)   ‘98.1月号
3 98年1月11日発行  年間購読代千五百円
4 城崎さんと共に浮かぶ会・神奈川
5 郵便振替  00260・4・86033
6  東京都港区新橋2−8−16石田ビル4F       救援連絡センタ−
7  川崎市幸区古川町66                       関  博明
8  大和市大和東3−3−7〜201(0462−61−8450) 桧森孝雄
 新年の報告
 城崎さんの無実−即釈放を求める試みは、1月26日の量刑判決公判を当面の課題としています。弁護人と城崎さんとの意志疎通がかみあわない状況下でも、米国=FBIの隔離政策が強化される中で、よりいっそう互いの交わりと確信を固める試みが問われています。
 検閲、嫌がらせの強化 ア−リントンでは検閲が建前上はないことになっていますが、FBIの管轄下にある城崎さんへの通信が完全な検閲下にあるだろうことは予想されたことです。11・29の集い前後の通信はいまなお彼の手元に入っておらず、救援の方向を相互確認することが困難な状況です。その他の通信も4週かかるものが出ており、抜き取られ手元に入っていない件も報告されています。
 在米救援の創造 現在、城崎さんと面会しているのは、隔離政策と歩を同じくしている弁護士サイドと宗教関係者のみです。在米救援の創設がいっそう重要となる段階ですが、在米の自覚した人々への通信も実り未だなく、11・29集会アピ−ルの各種団体への送付に対しても応答は未だなしです。歩みはノロくても、試みは続けられます。
 量刑判決公判 今回もYさんが渡米されます。私達も可能なことは一つ一つ続けます。皆さんのご理解とご支援をお願いします。(浮かぶ会)

1・25 城崎さんの無実−即時釈放を求める集い IN OSAKA

   陪審−有罪評決に抗議し城崎さん自身の意志での
自由帰国を求める大阪の集いを

   日時;1月25日午後2時から
場所;海員会館(〜人民新聞社
       (大阪市港区港晴3−3−18 地下鉄中央線「朝潮橋」駅下車徒歩約7分)   集い参加費;百円
    〜城崎さんと浮かぶ会・神奈川〜
    TEL・FAX;0462−61−8450
      (留守電利用もお願いします−ヒモリ)
=今号掲載文について=
① 11・29集いアピ−ルは英訳をお願いし、在米関係に送らせてもらいました。翻訳していただいた方に改めてお礼申し上げます。
② 日本赤軍が96年9月に城崎さん被逮捕に際して声明を発表していたことが、昨年の12月31日に、東京拘置所に拘束されている丸岡修さんの手紙から判明しました。声明は86年ジャカルタ闘争に城崎さんも日本赤軍も関与していないと表明しています。当該資料を送っていただいた方々に改めて感謝を述べさせていただきます。
③ 東京拘置所に拘束されている浴田由紀子さん、丸岡修さんから、城崎さんは日本赤軍のメンバ−ではないとのメッセ−ジをいただきました。
  ②と③は一審公判全体の前提を取り除く「証拠」であり、量刑判決に活用されるよう、あらゆる努力をなすつもりでいます。現在の弁護人が、日本側救援と交通を開く意志がないことを表明している下で、どれだけのことが出来るか不明ですが、世界中の人々と手を携えていく中でしか城崎さんの無罪−即時釈放の大道が真に創り出せない以上、試みを最後まで続けます。皆さんのご理解とご支援をお願いします。(共に浮かぶ会・神奈川)


「風の人」3号(通巻11号)THE MAN IN THE WIND
THE SUPPORTING NEWSPAPER FOR MR.SHIROSAKI
1 風の人  タクラマカン砂漠の風はどんな味がするのだろう
2 No3(通巻11号)   ‘98.2月号
3 98年2月15日発行  年間購読代千五百円
4 城崎さんと共に浮かぶ会・神奈川
5 郵便振替  00260・4・86033
6  東京都港区新橋2−8−16石田ビル4F       救援連絡センタ−
7  川崎市幸区古川町66                       関 博明
8  大和市大和東3−3−7〜201(0462−61−8450) 桧森孝雄
 量刑公判が20日へ延期になりました
 1月26日予定の判決日が2月13日に延期され、更に2月20日に延期されました(2月12日に複数から伝聞情報が入りました)。延期の正確な理由は分かっていませんが、城崎さんからの手紙(1月29日付、2月11日落手)に「今週こそPO[Probation Officer]面接かと思っていたのですが、どうも2月へと持ち越しのようですな。POを保護監察官と訳すみたいだけど、日本のそれとはちがって、POは判事の量刑考察にも影響するところから、ひょっとすると、2・13もまた延期となる可能性なきにしもあらず、という感じです」とあります。
 陪審評決から量刑宣告まで3ヶ月以上もかかるのがどんな意味合いを持つのか、注視し続けたいと思っています。4つの起訴罪状で有罪となり厳しい量刑が予測されるのですが、ノ−コメントを貫いている城崎さんに、出来るだけ多くの方々の励ましが伝わることを願っています。
 1・25大阪の集い報告
 今冬一番の寒さとなったのですが、9名の方々が集まってくれました。初めて会う方々とも突っ込んで話し合うことが出来ました。ネパ−ルからの強制連行−デッチ上げ拘束に抗議し、無実−即時釈放をベ−スに取り組んできているのですが、裁判方針−体制となじんでいない状態で、参加の方々からは救援会、しっかりしろとお叱りをいただきました。話し合いを深めながら城崎さんからのシグナル待ちが続いています。
 無実−即時釈放の試みがどんな関わりの中で展開するのか、集いでは少なくない示唆をいただきましたが、在日・在米の方々に知っていただく機会も少しずつ拡がっており、足元を確かめながら進んでいきたいと考えています。
 3編掲載について
① 11・29東京の集いで話された喜田村さんの講演を文章にしていただきました。問題の所在をト−タルに考えさせるものです。
② 城崎さんのお母さん方が作成した上申書を掲載します。1月、タッカ−さん➝米国Pさん➝日本Yさんで入った作成依頼に浮かぶ会が相談に乗りました。
 (1) 情状酌量〜上申書の意図−有効性が不明でしたが、ご家族が判断し対応する問題であり、ご家族の意向を尊重する。
 (2) 作成された上申書は、米国・連邦地裁通訳によらず、喜田村さんに作成をお願いする。
 (3) 提出の最終判断は、城崎さんによることを条件とする旨を添付し送付する。
 主にこれら確認のもとになされました。喜田村さんの英訳文はすばらしい詩となっています。
③ 城崎さん−丸岡さんの往復書簡。城崎さんからは公開を前提として書いた部分があると示され丸岡さんからは差し出し文の公開も可との手紙をいただきました。
今回もYさんが渡米されています。もう3度目。体調を維持されることを願っています。
  量刑ができるだけ短いものであることを願いながら、城崎さんとの自由まで、無実−即時釈放の試みを最後まで、ボチボチと。(浮かぶ会)


「風の人」4号(通巻12号)'98.3月号 98年3月28日発行
タクラマカン砂漠の風はどんな味がするのだろうか

年間購読代千五百円
城崎さんと共に浮かぶ会・神奈川
郵便振替 00260-4-86033
東京都港区新橋2-8-16石田ビル4F 救護連絡センター気付
川崎市幸区古川町66 関博明
大和市大和東3-3-7-201 檜森孝雄

無実の城崎さんへ禁固・30年の宣告、弾劾!

 コロンビア地方連邦地裁(ジェイムス・ロバートソン判事)は2月20日、昨年の11月14日になされた陪審・有罪判決のもとに城崎さんへ禁固・30年の刑を宣告しました。有罪訴因の「殺人未遂」に20年、「建造物等への攻撃」に10年、都合30年でした。
 宣告から日が経つにつれ、言い知れない怒りというものでしょうか、地に滲み溢れるような感が増しています。私たちは、この一審を通して自分たちの無力を幾度も思い知らされてきましたが、城崎さんとともにアメリカからの自由を勝ち取るまで、世界中の心ある人々との共同を求め続けます。

共に浮かぶ会の皆様
98・2・20
城崎 勉

 御存じのことと思いますが、量刑宣告は30年でした。
 弁護士は初めのうち「マクシム25年」と言っていたのですが、いつの間にかそれを「30年」へと水増し。「後で、自分の努力でヤスクしたと自慢するためかな」、「国家の意を受けてのことかな」「多分その両方が合わさったものだろうな」……なんて考えたものでした。
 その国家(アメリカ帝国主義)の論理は、検察側の宣告に向けての文書に如実に示されているのですが、でたらめ至極という意味で、実に興味深いものです。
 公判過程などで自己破綻してしまった私=Mr.K(※注.菊池俊介)=Mr.I(※注.石田博文)などといった論理やニューデリーシティバンク爆破の犯人としてインド当局は起訴の構えにある(FBIやUS検察はでっちあげに失敗したということを忘れてる!)などなど、いやはやどうしてこんなに自分たちのツラの皮の厚さを公然と自慢できるのだろう、とおどろくことが多々あります。が、それについて、ここで一々取り上げて云々することはしません。
 ここで触れておいた方がいいと思うのは帝国主義者の危険な論理についてです。
 僕らは、<私が日本赤軍のメンバーであることは疑うことのない事実であり、この悪名高きテロリスト組織は“US市民なら誰であっても殺せ”といった論理をもっており、ジャカルタ事件は他の幾つかの事件(あたかも私がその全ての実行主体であるかのようなレトリックを展開している!)と同様それを明確に示した、したがって世界のテロリストへのメッセージ、警告としても厳罰、極刑を適用せよ>といった論理を展開しました(検察の文書、及びそれに添付の国務省の対テロ責任者の文書はテロリストへの報復、みせしめの必要性を強調)。
 弁護士が、公判廷で私が日本赤軍のメンバーではないことを主張しようとしなかったということが彼らにこのような論理を許すことになっている一因とも言えるのですが、それに関してはスタインホフ教授からの文書が正しく指摘しており、ここであえて云々する必要はないと思っています。
 「帝国主義の危険な論理だな!」と思うのは、「US市民なら誰でも殺せ……というテロリストへの報復、みせしめ……」という考えです。
 ナチのユダヤ人狩りと同じ発想であり、実は米国が第二次世界大戦時に日系人に対してとった処置と同様の発想です。現在、「イラクへの攻撃をせよ!」といった論調がUS内では圧倒的ですが、そうした中でイラク系市民が肩身の狭い思いをさせられているというのとも通底しているでしょう。
 ずっと昔、<日本語の本に、アラブ人は『ユダヤ人を海にたたきこめ!』と突撃してきたが、ユダヤ人はこれをはねかえした、その論理は今もアラブ人に共通している……といったことが書いてある>と言ったところ、友人のパレスチナ人が顔を険しくして、<日本ではそんなことが信じられているのか?! 確かに運動の初期の頃、そういう人たちもいた。が、それは歴史の中でのことだ。なんということだ……>と絶句してしまったのを憶い出さずにはおれません。戦闘の中で、そうした言葉を口にする者もいるかもしれません。しかし、パレスチナ革命はそんな誤りを何度も何度も否定して発展してきたのです。
 それと同様に、US市民なら誰でも……というのは、帝国主義者自身の発想法の反映でしかないのであり、それをもって、みせしめ、報復を正当化しようとして、自らのあわれな思考法の馬脚をあらわしてしまったのです。
 ジャカルタの件ではスハルト独裁体制、シティバンクの件ではインド、そして私の逮捕はネパールというように、アメリカ帝国主義第三世界の腐敗、汚職を利用して、でっちあげをなんとかそれらしく保っているだけ、と言ってもいいのが実情です。
 どうせ裁判なんて茶番、勝手にするがいいさ……という思いが基底にあります。というのも無罪、無実を立証しようとしても、へたをすれば奴らの思うツボということにもなりかねないからです。しかし、こんなメチャクチャな論理を用いられると「勝手にするがいいさ」と言ってもおれないようですな。はてさて……。
 なお、『風の人』2号に掲載された丸岡氏の証言などは、そのものとしては活かせませんでしたが、スタインホフ教授が引用―証言という形になりました。
 それと、ジャカルタ事件は例の量刑ガイドラインの施行前のことなので、その適用とはならないことも伝えておいた方がいいかと思います。
 ともに!

暖かくなり、土が動き始めました

 2月21日早朝、ワシントンのYさんからFAXが入っていました。電話で、検察側70年の求刑だったことを知りました。宣告と同時に城崎さんは控訴審の取組みを始めているようです。弁護人は一審と同じタッカー弁護士。
 城崎さんは3月16日にワシントン・アーリントン拘置所からオクラホマへ移動し、ここで一ヵ月くらい過ごした後、“新居”も移るようです(救援関係者への手紙から)。“新居”がわかりしだい、お知らせいたします。
 一審までの歩みの断片を『風の人』に紡いできましたが、一区切りをつけ、振り返ってみたいと考えています。アメリカでの政治裁判では何が求められ、どういう救援が求められているのか、公判―救援関係を整理して提出します。狭い、個々の孤立的な状況と関係を直視し、できるだけ多くの方々との共同を探りたいと希望しています。
 なお、1月25日の大阪集会へ城崎さんはメッセージを送ったそうです。例のごとく中身の一部が途中で消えたのでした。日本側からの手紙も肝心なのはよく消えたようですなあ。怒り、天に達すれば、無言の微笑となります。
 城崎さん、風に乗せて、握手を!

 2月会計報告は3月分と合併で4月号に掲載します。購読料とカンパ、本当にありがとうございました。
(城崎さんと共に浮かぶ会・神奈川)





「風の人」5号(通巻13号)THE MAN IN THE WIND
Free!SHIROSAKI
1 風の人  タクラマカン砂漠の風はどんな味がするのだろう
2 No5(通巻13号)   ‘98.4月号
3 98年4月30日発行  年間購読代千五百円
4 城崎さんと共に浮かぶ会・神奈川
5 郵便振替  00260・4・86033
6  東京都港区新橋2−8−16石田ビル4F       救援連絡センタ−
7  川崎市幸区古川町66                       関 博明
8  大和市大和東3−3−7〜201(0462−61−8450) 桧森孝雄
 城崎さんへ風の香りを乗せたシグナルを
 城崎さんはテキサスへ移りました
  四月半ば、城崎さんからお母さんへ手紙が届いたとの知らせが入りました。その後どうしているのか、郵便物の幾つかが返送されていた中での便りでしたから一安心です。どうも無一文の状態でオクラホマに送られ、そのままテキサスへ移されたようで、切手も封筒もなく同房者からもらってようやく手紙したようです。
  20日過ぎ、もう一通の手紙が城崎さんから届いたとの知らせが入り、少し詳しい事情が伝わってきました。城崎さんの新しい住所は次の通りですので、風の香りを便りしてくだされば、と思っています。日本語でも英語でもかまいません。
  新住所(New Adress)
Mr.T.Shirosaki
# 20924−016
U.S.P
POBox 26030
Beaumont.TEXAS
77720−6030
U.S.A
 城崎さんとの通信が確保されますように
  昨年11月の有罪評決以降とくに、日本の救援会からの手紙類は入りにくくなっていました。11月の集会アピ−ル文も今年になってようやく城崎さんの手に渡ったことが確認され、集会で書いていただいた寄せ書きと11月集会を受けてまとめた救援方針文書とは今なお城崎さんへ渡っていないことが確認されています。城崎さんからは今年1月の大阪集会へのアピ−ルが届いていないことは、前号でおしらせした通りです。城崎さんのNo.を付した今年の手紙は数はそろっていますが、中身がそろっていないのです。3月に入って送られた手紙類では、城崎さんが入手できたと確認できたのは救援会以外の2通のみで、「転居先不明」や「名あて国から返送理由が明示されずに返送」が相次いできました。
  こうした通信状況の一端からしても、米国政府の姿勢は明らかです。通信や獄中処遇を巡って実に様々な訴訟が相次いでいる米国事情を知るにつけ、生活の権利は闘い取るものでしかないんだなあと改めて思い知らされています。
  他方、城崎さんは弁護士のタッカ−さんへ所持品(金)の送付を依頼したところ、急ぐ必要もないとの返事をもらったようです。とりあえず、百ドルだけマネ−・オ−ダ−で救援連絡センタ−から送ってもらったのですが、これが受取拒否されるようだったら別の方途を手立てしたいと思っています。なお、在米の人権活動家の一人からは、城崎さんがタッカ−さんを弁護人としているのは恥であるとの手紙をいただいており、有罪評決以降の城崎さんの孤立状況を憂慮しています。
  様々な障害と課題がますます明らかになってきていますが、裁判の要である「被告−弁護人−救援」の関係を創りあげていくために、今一度、城崎さんとの交通を確保したいものだと願っています。皆さんからの知恵と力をお待ちしています。

「風の人」6号(通巻14号)THE MAN IN THE WIND
Free!SHIROSAKI         98年5月10日発行
1 風の人  タクラマカン砂漠の風はどんな味がするのだろう
2 No6(通巻14号)   ‘98.5月号
3 年間購読代千五百円
4 城崎さんと共に浮かぶ会・神奈川
5 郵便振替  00260・4・86033
6  東京都港区新橋2−8−16石田ビル4F       救援連絡センタ−気付
7  川崎市幸区古川町66                       関 博明
8  大和市大和東3−3−7〜201(0462−61−8450) 桧森孝雄
 元気にしてるようだなぁ〜、城崎さぁ〜ん
  「どないしてるんやろなぁ」と思っていたら救援関係に手紙があいつぎました。バ−モントの連邦刑務所は外部と「住民」との交信を大事にしているようで、日本語の手紙は2週間、英語の手紙は1週間で着きました。翻訳体制がどの程度かまだはっきりとわかりませんが、日本語の手紙は時間がかかるものだと思っておいた方がいいようです。
  前号で、いわば「着のみ着のまま」のテキサス移住をお伝えしましたが、ワシントンからの送金もあり、ラジオを購入し、切手の購入も不自由なくなった様子が垣間見られる手紙でした。
  ア−リントンやオクラホマのような、堪忍袋の緒が切れた訴訟覚悟!が懐かしくもあり、それなりの前提が感じられるテキサスからの便りでした。
  ご存じと思いますが、紙表紙の印刷物なら何でも入るはずです。厚紙表紙の本や新聞は出版元などから送ってもらっています(つもりです)。
  もう5月です。バ−モントはメキシコ湾のヒュ−ストンに近そうなところにあります。控訴審の便りも近いでしょうか。風、届け!(城崎さんと共に浮かぶ会・神奈川)

  次の案内は、城崎さんの救援に関わるようになってから実り始めた試みです。人の息吹、歴史の知恵を一つでもいいから、水平線の彼方に見透かせたらと、もう一度、教わるつもりです。



5.30 国際救援は今!
  色とりどりのツツジが野山をにぎわす頃となりました。皆様、いかがお過ごしでしょうか。

  88年から始まった海外での政治−思想弾圧事件がここ数年連続しており、この傾向は当面の10年の幅で考えても減じることはないだろうとの観測から、実際に救援に携わって来られた方々から話を伺い、ザックバランに交わる集いを計画しました。
  日本での救援は70年前後から30年近い蓄積があり、それなりの関係が救援連絡センタ−を中心に機能してきました。しかし、海外での被逮捕−裁判となると、その国や地域の人々との関係づくりとともに、異なる司法−文化への理解と対応が求められ、そうした中で、実に様々な試行錯誤−失敗などを避けられなかった歩みだったと思います。そろそろ、それぞれが独立独歩で重ねてきた救援体験をお互いの経験としていく時期に入ったのかもしれません。
  今回の集いはその試みの一つです。
  お忙しい中とは存じますが、ご参加をお待ちしております。

 日時; 5月30日  午後1時より
 場所; 大阪府立青少年会館2F特別会議室
 会費; 2千円 〜軽い軽食・飲料付きです〜

 報告予定   菊村憂さん救援会、城崎勉さん救援会、田中義三さん救援
レバノン2.15弾圧救援、その他
 集い世話人  柴田泰弘、沼地義孝、檜森孝雄、渡辺亜人
山中幸男(救援連絡センタ−)、津林邦夫(人民新聞
 連絡先     救援連絡センタ−
           03−3591−1301

Mr.T.Shirosaki
# 20924−016
U.S.P
POBox 26030
Beaumont.TEXAS
77720−6030
U.S.A


「風の人」8号(通巻15号) 99年3月3日発行
The Man in the Wind. Free Shirosaki!
風の人 タクラマカン砂漠の風はどんな味がするのだろうか

城崎さんと共に浮かぶ会・神奈川
郵便振替 00260・4・86033
東京都港区新橋2-8-16 石田ビル4F 救援連絡センター気付
川崎市幸区古川町66 関 博明
大和市大和東3-3-7-201(0462・61・8450) 檜森孝雄

無罪を求めた控訴が却下されました

 2月8日、控訴が却下されました。本当に残念な結果です。2月22日、在日の在る方から却下判決文を送っていただきましたので拙訳を届けます。2月24日に落手した手紙では、城崎さんは元気なようで、次の対応も考えているようです。

合衆国控訴法廷 1999年2月8日 被控訴人:合衆国 控訴人:城崎勉 主任判事:エドワーズ 巡回判事:ウイリアムス、ランドルフ

 判決
 コロンビア地裁扱いからの控訴について説明を受け検討した。当法廷は弁論の必要がないことで一致した。したがって、原判決は変更されない。
 被告は地裁が確定した何点かに論難している。だが地裁は被告の前科の証拠を認め選択の範囲内で判断した。被告は申し立てによればJRAの前身・赤軍派の資金獲得のため日本で71年、一連の強盗に関与した。有罪評決の証拠は彼がJRAの成員でJRAに同調し、86年に大使館を爆破した動機を適切に示した。地裁は不正な偏見に捉われずに証拠を扱った。偏見の危険は71年の罪と86年の爆破との相違を考慮し、裁判官の指示で最小にされた。
 地裁は、JRAダッカ・ハイジャックの要求で被告が77年に刑務所から釈放されたことを正当に認めた。証拠は被告がJRAに属しているか同調しているかを示した。これが政府による爆破動機を支えている。
 地裁はJRAの専門家の証言を正当に認めた。ファレルは諜報活動分野の専門家で彼の証言は陪審を助けた。JRAは工業先進国家、特に日本を非難し攻撃を企て推進してきた。JRAの考えと手口は被告が爆破に関与した動機を示すのに適切である。ファレルは陪審の判断に干渉しなかった。ファレルは特に86年の攻撃で日米を非難しているJRAの声明を挙げ、JRAによる論理的可能性を証言したのであってJRAが86年の攻撃に責任があるとは語っていない。地裁はファレル証言範囲を制限し、他証拠の関連の下で扱うよう陪審に示し、不正な偏見を充分に制した。
 地裁は広範に反論を組織したがゼッハの間違った予審証言への被告側反論を妨げ、偏見を抱かせたかもしれない。だが、それで合理的疑いが失するものではない。ゼッハは忘れっぽく、そのため地裁は弁護人の質問に答えるようゼッハに忠告しなくてはならなかったが政府は被告に強力な証拠を示した。爆破地点に残された2つの指紋である。
 地裁は証人が「テロリズム」を使用する場合、制限し、JRAに関連させることを許した。この語の引用で扇情的になったり根拠のないものになったりはせず、むしろ、文脈が解りやすく説明された。
 97年6月13日の地裁で示されたのだが当法廷は、96年の9月、合衆国への途中で被告がなした言明を地裁が正当に認めたことをも指摘しておく。
 当法廷は熟考した結果、被告の他の論点を却下する。

★日米共同の強制連行・有罪デッチ上げに抗議し、城崎さんが自由の身になるまで世界中の方々と共に歩みたいと願っています。風、届け!

Mr. T. Shirosaki
# 20924-016
U.S.P P.O. Box26030
Beaumont. Texas
77720-6030
U.S.A.


THE HEAD
Arlington County Facility
1435 N. Court House Road
Arlington, VA 22201
U.S.A.

6 July, 1998

Dear Sirs

I hope my two questions will reach to you.

I sent the collection of autographs by people in Japan on December 1997, to Mr. Shirosaki who had been in your house until March 1998.
Mr. Shirosaki was changed to new house, U.S.P. Beaumont in Texas. He told me that he could not get the collection of autographs yet, by his letter.
I am very sorry. Some people in Japan may be in the same heart.

I must make two questions to you.
First one is whether the collection of autographs had been delivered to your house or not.
The second is, if delivered, where it is.

I hope our hearts are still alive.

I am not good at English. If this letter style is impolite, I beg your pardon.

Yours Respectfully




July 23, 1998

Yamato-City, Kanagawa Pref.
Japan

Re: Tsutomu Shirosaki

Dear Mr●●●●

I received your letter regarding a package you mailed to Inmate Shirosaki. In checking with our Property Section, since Inmate Shirosaki was no longer in our Facility, this package was mailed back unopened as “Return to Sender”.

I am sorry you have not received the package yet and suggest you check with your local post office.

Yours truly,
●●●●●(手書きサイン)
Major Michael Pinson
Director of Corrections

平成10年8月15日
檜森孝雄様
大和郵便局
TEL 0462-61-5143

檜森様あて郵便物について

 檜森様よりお問い合わせのありました郵便物について8月より8月14日まで大和局に到着した外国からの小包を調査した結果、檜森様あて小包の到着の形跡はありませんでした。別添文書によりますと、1998年7月23日付になっております。いつどういう形でだされたのかわかりませんが、アメリカからだと船便で約30日〜40日、航空便で1週間の日数がかかりますのでこれから到着の可能性があります。お忙しい中、誠に恐れ入りますが、もうしばらくお待ちいただきますようお願い申上げます。


あとがき:

城崎さんへの有罪評決を弾劾します!
米日両政府共同の、ネパールからの米国本土への強制連行に抗議します!
控訴審―無罪獲得を、世界の人々と手を携え、共に求めます!

 96年9月23日、ネパールから城崎さんは米国本土へ強制連行されました。
 86
年の米国大使館・在ジャカルタへのロケット弾攻撃闘争の実行犯として起訴されていたのです。
 城崎さんの無実は、10月20日から3度に渡った証拠・証人調べ公判の全体が明らかにしました。連邦検察FBIの余りにもズサンなやり方に、日本からの派遣団からは、無罪を確信する。これで有罪なら米国の民主主義はとてつもないものだ、との感想も出ていました。

 城崎さんは元気で、控訴―無罪を戦う意向を明らかにしています。
 今回のデッチ上げ起訴―有罪評決は、日米両政府による、日本赤軍をダシにした見せしめに他なりません。城崎さんが日本赤軍のメンバーではないことは衆知の事実です。

 私たちは、全世界の人々と共に、城崎さんの無実を明らかにし、城崎さんの無罪釈放―自由意志による帰国を求めます。

 97年11月29日 東京 早稲田奉仕園にて


(※注:救援連絡センターの話では、
大江健三郎沖縄戦の本を出版社(岩波書店)経由で差し入れしたが、監獄で差し入れを拒否され、城崎はこの本を受け取れなかった。アメリカでは沖縄をテーマにした本はどうも差し入れ不許可にされるようで、岩波にも抗議するよう申し入れたが無視されたようである。城崎はこの件で訴訟を起こそうとした。以下の文書は檜森が監獄あてに送った抗議文と思われる。)

THE HEAD
United States Penitentiary
POBox 26030
Beaumont, Texas
U.S.A.

6 July, 1998

Dear Sirs

I hope my question will reach to you.

I sent the hard cover Japanese book on May 1998 to Mr. Shirosaki who in in your house, from the publishing company. The book was returned to the publishing company, and it is in my hands now.
I can not understand why the book was returned, because you did not indicate any reason to be returned but only “refuse”. I enclose the book package copy.
For reference.
The titles of Japanese book
“Tonari ni Dassou-hei ga ita jidai”
[The Days when Deserters were beside]
Published by:
“Sisou no Kagaku sha”
 [The Science of Thought Co.]

As you know, the native tongue of Mr.Shirosaki is Japanese. If the native tongue is limited, it means the death both of life and of thought. I hope Mr.Shirosaki is able alive in your land.

I want to continue to send Japanese books to Mr.Shirosaki. I must know your rules for sending Japanese books.
Would you please teach me the reason why the book “Tonari ni Dassou-hei ga ita jidai”, was refused?

I am not good at English. If this letter style is impolite, I beg your pardon.
Your Respectfully

以下は「Yahoo翻訳」による直訳。  大体の意味は理解できると思う。

宛先:
米国の刑務所
POBox 26030
ボーモント、テキサス
米国

1998年7月6日

拝啓

私は、私の質問があなたに届くことを望みます。

私は、ミスターに1998年5月にハードカバー日本語本を送られます。シロサキ、出版社から、お宅でで誰。本は出版社に返されました、そして、それは現在私の手です。
あなたが返される少しの理由も示さなくて、「拒絶するだけである」ので、私は本がなぜ返されたかについて、理解することができません。私は、本パッケージコピーを同封します。
参考のために。
日本語のタイトルは、「隣に脱走兵がいた時代」[Desertersがあったとき、Days]Publishedを予約します:「思想の科学」社

御存知の通り、Mr.Shirosakiの自国語は、日本です。自国語が制限されるならば、それは生命の、そして、思案の終わりを意味します。私は、Mr.Shirosakiがあなたの土地で生きて有能なことを望みます。

私は、Mr.Shirosaki.に日本の本を送り続けたいです私は、日本の本を送ることに対するあなたの規則を知っていなければなりません。
あなたが、どうか理由を私に教えます本「トナリni Dassou-hei ga ita jidai」、拒否されました?

私は、英語が得意でありません。この手紙スタイルが無礼であるならば、すみません。

草々

□B 有罪評決までの経過
<1971年       共産同・赤軍派のEM(連続金融機関襲撃闘争)で逮捕される。
   74年       懲役10年確定、下獄。
   77年       日本赤軍による日航機ハイジャック闘争で人質との交換釈放要求に呼応。
<1986年 5月14日 インドネシアジャカルタで米国大使館、ロケット砲撃される。
             城崎さん国際手配される。なお、日本政府も、日本大使館放火容疑で国際手配。
1990年 5月15日 米国、城崎さんをジャカルタ闘争の実行犯として起訴。
<1996年 9月19日 ネパ−ル・カトマンズで逮捕される。
       9月23日 米国本土へ軍用特別機で強制連行される。
<1996年12月    城崎から実家への手紙、拘置先、初めて明らかになる(拘置先は国家ぐるみで秘
             匿され、在米救援関係も「共に浮かぶ会」から初めて入手)。
 1997年 初春    弁護人タッカ−さん来日(確認事項は不明。城崎さんとの個人文通禁止を伝え聞
             く〜個人文通継続。)
       5月    検察側、ロ−マ、ニュ−デリ−闘争での追起訴をチラつかす。
             弁護側集団、無実主張の城崎さんに司法取引を勧誘。
       7月    公判延期。
       8月    司法取引に反対し、無実−無罪を求める「共に浮かぶ会・神奈川」設置。
             喜田村弁護士、応援を快諾。
      10月    タッカ−弁護士、喜田村弁護士と交通を開く意志のないことを表明。
             公判開始。
      11月13日 第一次評決、無罪・有罪の意見が分かれ、評決できず。
         14日 第二次評決、訴因全てに全員一致の有罪評決。
<1997年 1月26日 刑期判決(控訴意志表明提出期限日)。

 無罪獲得の控訴審体制発足へ、
カンパをよろしくお願いします

 現在、城崎さんは控訴の意向を明らかにしています。一審の経過をつぶさに検討していませんが、最も残念なのは、「被告」と弁護人との裁判方針を互いに創りだし、共有する試みが最後まで成立させ得なかった点にあると思っています。
 日本のみならず全世界で、冤罪がはびこり、重刑・死刑の「みせしめ」がまかり通っていますが、何かの縁で城崎さんと知り合う中で、少しは住みやすい地球上にしたいものだと思っております。お金がないと米国の裁判救援にはへっぴり腰になりがちですか、求められている気の遠くなるようなお金をどうにかしたいものだと思っています。どうぞ、よろしくお願いします。
 なお、「風の人」は29日集いの報告を創刊号として月刊とし、財政報告を毎号のせることになります。年間
購読費は高いですが2千円とさせてもらいたいと考えていますがどうでしょうか。

城崎さんへ励ましのお手紙を!  Mr.TSUTOMU SHIROSAKI
Arlington Courthouse Facility
                  1435 N. Courthouse Road
                   Arlington, VA 22201
                   U.S.A













米国ワシントン連邦地裁裁判断片集


(1998年10月21日発行)

ジョー・デ・ゲバルデヴィチの歌
南田草介(※注:関博明のペンネーム)
男ありけり
昔ありにし赤軍派、M作戦
判決の折「強盗赤軍に十年」とて報ぜられけり
またある時、阿部譲二なる傾き者のものせし読本に、
黒ぶち眼鏡、丸顔の生まじめな奴とて記されし事あり……。

ハイジャックで出て行ったんだよ。指名されて、刑期数年のこして。
次から次からパクられたんだよ、退かない奴は。退くに退かれぬ、行くにも行けぬ。パクられる。残った奴らはつぶされる。ぺしゃんこ。

再建論議あちこち、あれこれ。
けれど みんな夢のまた夢
あちこちケンカ 四部五裂
それが「壊滅」

出て行ったんだよ、指名されて
アラブの彼の地で合わなくて
意見? 気質?
ケンカ度々、けれど縁は切れなくて
そしてこうして20年

流れ、流れて米帝監獄
今度は判決30年
笑っちゃう程 数奇な人生
クソがつく程 マジメな男 ありけり

お〜い城崎 どこへ行く!

ジョー・デ・ゲバルデヴィチ

生きてりゃ会えるさ、こっち側
死んだら会えるさ、あっち側



米国ワシントン連邦地裁裁判断片集
米日両政府合作による城崎さんへの30年を弾劾する!

城崎さんと共に浮かぶ会・神奈川/東京都港区新橋2-8-16石田ビル4F 救護連絡センター気付/川崎市幸区古川町66 関博明/大和市大和東3-3-7-201檜森孝雄/郵便振替00260-4-86033/1998年10月21日/値段¥百縁
THE MAN IN THE WIND FREE! SHIROSAKI!

遅れました、一審断片集

 間もなく控訴審の行方が定まろうとしているのに、一審の断片をようやくまとめいている姿を俯瞰してみると、歩んでいるのか退いているのかという疑問はどうでもよくなって、浮かんでいるんだなと妙に納得できている。
 初めのころ「関わる―肉接」イメージがどうこうあり、その後「浮かぶ―沈む」どうこうがあった。喜怒哀楽、希望―絶望、何でもごっちゃが世の中で、水でも岩でも空でも何でも、その中に浮かんでみようかいというのがあった。質量1億の関係の中でも、ボチボチ浮かんでみようかいと。

 浮かぶ会と城崎さんの弁護人・タッカーさんとは交通が一度も開けず、結局、公判資料は城崎さんから送ってもらっていた陪審記録の一部に止まった。判決公判での彼我の弁護は資料で当れず、お報せは断片も断片、まとめた本人も?の只中に浮かぶ始末となっている。ただ、米国の司法―裁判を窺い、城崎さんの無実を確信することはできる。城崎さんの方は、夏に入ってから、一審資料の一部がタッカーさんから送られてき、控訴審を考え進めているとの報せがあった。弁護人との交通がどうなっているのかも定かでないが、見守り続けたい。彼の健康を願う。





米国ワシントン連邦地裁裁判断片集





(1998年10月21日発行)






――目 次――
① 判決特集『風の人』№4 2
② 11・29 喜田村さんの講演 3
③ '98,10〜 陪審公判記録(抜粋) 7
④ 弁護人選任メモ/アーリントン拘置所接見規則 21
⑤ 宙に浮いた寄せ書き探査記録 22
⑥ 11・29 集会アピール/書籍返送はなぜ? 23



米国の陪審制度と城崎さんの裁判
喜田村 洋一(弁護士)
【1997年11月29日「城崎さんと共に浮かぶ夕べ」での講演】
――表題は浮かぶ会で付けました――
 今日は、城崎さんの裁判の判決が出されたことを受けての集まりですが、私からは、お集まりの皆さんに、日本と米国の刑事裁判の違いというものをお話させていただきたいと思います。私は、日本で弁護士になって20年ほどになりますが、その間に米国に留学して1983年にニューヨーク州の弁護士登録もいたしました。ですから、米国の刑事裁判についてある程度のことは判りますが、もちろん弁護人として米国で刑事法廷に立ったり刑事事件を扱ったりしたことはありませんので、実務経験に基づくお話というのはできません。そのつもりでお聞きいただければと思います。

= 大陪審 =
 米国では、重罪事件の場合には、大陪審という制度があります。テレビや映画でよく見る陪審は、公開の法廷で審理がされるときにその場にいて証言などを聞いたりしますが、あれは、小陪審と呼ばれるもので、この大陪審とは違います。大陪審は、普通の陪審と同じように一般市民から選ばれますが、人数は小陪審が通常12名あるのに比べ、もっと多く23名くらいが普通だと思います(「大」というのも、この数からきています)。そして、大陪審は、検察官から提出された証拠(物証や証人の証言)を見て、起訴できるだけの証拠があるかどうかを判断します。これは、検察官が証拠もないところで勝手に起訴をできるようでは、たとえ後に裁判で無罪になったとしても、大へんな労力が必要となり、社会生活を送る上でも大きな不便がありますので、不十分な証拠しかない起訴はさせないという目的のために設けられた制度です。
 しかし、現実を見ると、大陪審はこのような抑制的な機能を果たしているとはとても言えません。大陪審は、殆どの場合、検察官の提出した証拠は起訴するに十分であると判断して、検察官の請求をフリーパスで認めてしまうのです。しかも、大陪審に提出できる証拠は、公判廷で証拠能力が認められないようなものも含まれるとされているので、起訴すらできないような場合というのとは希有の場合ということになります。
 城崎さんの場合も、大陪審が「起訴しうるだけの証拠がある」と判断し、起訴状を提出しました。後でもお話しますが、起訴された事件の中で城崎さんがどのような行為をしたのかとか、犯人といつどのような謀議をしたのかということが全く判らない起訴ですから、日本ではいくら検察官でも通常事件なら起訴は躊躇するのではないかというような証拠しかなかったわけですが、米国の大陪審は起訴に踏み切ったわけです・もっとも起訴したといっても、実際には検察官の判断を追認したというだけだというのは、上にお話したとおりです。

= 司法取引 =
 さて、起訴されると、被告人は起訴された起訴について有罪を認めるか、無罪を主張するかを決定しなければなりません。この関係で重要なのは、米国の刑事司法手続では、日本にはない「司法取引」という制度があるということです。これは、被告人が有罪の答弁をする代わりに、検察官の方ではより軽い罪で起訴するという制度です。たとえば、実際にはかねてから計画した殺人であっても、計画があったという部分を起訴の対象にしないで、その場で激情的に犯した殺人であるとしたり、殺人の故意がなく、日本でいうと過失致死犯として起訴したりということがあります。
 このように軽い罪で起訴されれば、有罪となっても宣告される刑は軽くなりますし、判決での刑も検察官の勧める刑に従う場合が多いとされていますから、検察官と量刑についても合意に達していれば、実際の刑についても予測がたちます。ですから、無罪を争いたい被告人であっても、万一有罪になった場合には重刑が課せられることを危惧して、司法取引に応じることもあるのです。
 これに対して、検察官の方では、本来の事実で起訴すれば、被告人が争い、このために無罪となる可能性が出てきます。また、後で述べるように被告人には陪審審理を受ける権利がありますが、陪審の場合には、時間が長くかかりますし、費用もかかります。これは刑事事件の数が極めて多い米国では深刻な問題で、仮に重罪事件の半数の被告人が無罪主張をして、正式審理を求めるならば、米国の刑事裁判制度は崩壊すると言われているほどです。したがって、検察官にとっては、刑期が短くなるという結果は生じても、司法取引によって被告人から有罪答弁を得て、事件を迅速に処理するというメリットがあるわけです。
 このように、司法取引は、被告人と検察官の双方にとってある程度メリットがある制度ですから、米国では殆どの事件で試みられます。城崎さんの事件でも、司法取引の申し出があったように聞いていますが、結論としては、城崎さんは司法取引に応じませんでした。司法取引に応じるということは有罪を認めるということであり、このような方針を採ることが正しいかどうかということは、城崎さんの場合には特に問題があったろうと想像します。さらに、城崎さんのような事件では、検察官と司法取引に応じたとしても、量刑が軽くなるとは限りません。このことは、米国で同じように裁判になったKさんの事件のことを考えれば明らかだろうと思います。
 実際にどのような検討を経ての結論かは明確には判りませんが、いずれにせよ、城崎さんは司法取引を行いませんでした。

= 陪審 =
 米国では、無罪を主張する刑事事件の被告人には陪審裁判を受ける権利があります。城崎さんは、無罪を主張して陪審審理を選択しました。ご承知のように、陪審は、一般市民の中から無作為に選出される12名(もっと少ない場合もあります)で構成され、有罪か無罪かを決定します。
 ご注意いただきたいのは、日本の刑事事件とは違って、米国の刑事裁判では、有罪か無罪かを決める段階と、有罪の場合にどのような刑とするかの段階とが、はっきり区別されているということです。日本では、この2つの段階が一緒にされ、しかも1つの手続ですから、当然同じ裁判官が両方の証拠を聞くわけです。しかし、これですと、本当は無罪を主張するのだけれど、有罪になった場合に備えて、「実は被告人は犯行を犯すにはこんな事情があった」とか、「被告人はこのような性格を持ち、仕事も家庭も安定しているから、執行猶予にして欲しい」というような主張をすると、無罪の主張をすること自体が矛盾するような感じになってしまいます。
 米国の制度では、このようなことはありません。まず、有罪か無罪かを決めるのは陪審です。陪審が有罪と認めると、その後の量刑手続には陪審は関与しません。実際の量刑を決めるのは裁判官です。裁判官は、被告人についての調査報告書を読み、検察官と弁護人双方から意見を聞いて、刑を宣告するのです。
 陪審審理による違いのもう1つは、判決の理由の有無です。日本の刑事裁判では、刑事判決には理由をつけなければならないとされています。裁判官が、いろいろな証拠をどのように評価して、どのような事実を認定し、これがどのような犯罪を構成するとしたのかが、判決書を読めば判るようになっているのが本来の姿です(そうでない判決もいろいろ有りますが)。ところが、陪審員は法律の素人ですから、いろいろな証拠から事実を認定するということはできても、それを文章にして表現するということは期待できません。陪審に対しては、「この被告人は起訴された……の犯罪について有罪か無罪か」という質問しか許されません。その答えも「被告人は……の犯罪について有罪(又は無罪)」というだけです。日本の刑事判決のように、「被告人は、○月△日に、〜において、……し、よって、……の罪を犯した」というような細かい事実認定もありませんし、なぜ起訴事実を犯したと認めたかという理由の説明もありません。
 陪審がどのようにしてその結論に達したかについては、伝統的には「評議の秘密」として探ってはいけないことになっていました。ですから、陪審審理は、ブラックボックスのようなもので、なぜ有罪(無罪)という結論が出たかは判らないのです。ということは、検察官にとっても、弁護人にとっても予測がつけにくいということです。
 陪審審理のよい点は、一般市民の普通の感覚で裁いてもらうことが期待できるということです。特に、政治裁判と言われる事件では、裁判官は伝統的に検察官の肩を持つことが多いと思われますが、一般市民は常識に従って、偏見のない見方をしてくれると期待できるのです。
 これに対し、陪審倫理の悪い点とされるのは、たとえばメディアで大々的に取り上げられ検察よりの見方しか報道されていない事件や、市民の間に広く偏見が持たれている事件では、市民がそれに影響されてしまうという危険性があります。
 いずれにせよ、城崎さんは、陪審審理を選択しましたが、上記のようなそれぞれの危険性を考えると、正しい選択だったのではないかと考えています。

= 証拠構造 =
 大陪審によって起訴された事件は、形式的には4つありますが、結局はジャカルタの米国大使館に対する攻撃が、①殺人未遂と、②建造物損壊というものです。
 その証拠として提出されたのは、実行犯と目される人物に城崎さんが似ているというホテル従業員の証言と、犯行現場と目されるホテルの部屋に城崎さんのものとされる指紋があったということだけです。先程も言いましたように、被告人の城崎さんが何をしたとか、誰とどのような共謀をしたという証拠は全くありません。
 しかし、陪審はこれだけの証拠で城崎さんが有罪であると認定しました。確かに、指紋は仮にそれが城崎さんのものであると仮定すれば(証拠そのものを見ていないので、この点はわかりません)城崎さんがそこに居たという認定はできるでしょうが、それ以上に、城崎さんが大使館を攻撃したということまでは認定できないというのが、日本的な常識と思いますが、米国ではそうではありませんでした。これは、1つには、陪審が細かい証拠認定をしなくとも、大雑把なとらえ方をして、「被告人がやったに違いない」と判断したためだろうと思います。そして、そのような見方をさせるようになった根底は、検察官の「被告人城崎は赤軍派に属するテロリストである」という宣伝であることは事実です。ですから、この面では、陪審制の悪い側面が出たと言えるかもしれません。
 ただ、ここで指摘しておかなければならないのは、被告人の発言についての日本と米国の差です。日本では、刑事事件の被告人は供述拒否権があり、発言してもしなくても、また発言する場合でも、弁護人の質問には答えるが、検察官の質問には答えないとか、この質問には答えるが、別の質問には答えないということが全く自由です。また、被告人は宣誓をしませんから、偽証罪に問われることもありません。
 ところが、米国では、刑事被告人は、供述拒否権はありますが、供述をする場合には宣誓をして証人として行ないます。したがって、この場合には、検察官の質問にも答えなければなりませんし、すべての質問に答えなければなりません。証言を拒否すれば裁判所侮辱罪に問われる可能性があり、証言が虚偽であれば偽証罪に問われる可能性があります。しかも、被告人が証人席に立った場合に、検察官が最も頻繁に利用するテクニックは、被告人に前科があるという事実を陪審に知らせることです。前科があった場合には、一般市民の陪審は、被告人の供述を信用しない例が多いのです。
 城崎さんの場合に、仮に城崎さんが証言台に立つと、検察官は、日本で刑事裁判を受け有罪になったこと、そのときに共産同赤軍派と呼ばれる党派に属していたこと、日本赤軍のハイジャック闘争によって刑務所から出たことなどをあらいざらい、細かく問いただし、陪審に判らせようとするでしょう。この場合に、陪審がなお無罪という評決をするかどうかは疑わしいと思います。
 実際には、城崎さんは証言しませんでした。この選択も、上で述べたような状況を考えると正しいものだったと思います。しかし、陪審は、「指紋があったということは、その部屋にいたということだ。何も事件に関わりがなければ、なぜその部屋にいたかということを明らかにするだろう。しかし、それを言わないのは、犯人だからではないか」という推測をした可能性は消せません(もっとも、このような危険性があっても、証言しなかったという選択が正しいという判断は変わりません)。

= 量刑 =
 先程も述べましたように、陪審が決めるのは有罪無罪だけで、量刑は裁判官がいろいろの資料を見て決定します。この量刑公判は有罪判決があってから1ヵ月程です。その間に、検察官と弁護人の双方が資料を提出するのです。
 しかし、城崎さんの場合は、量刑公判は、11月14日の有罪判決から約2ヵ月先の1月26日になりました。これは、裁判官が、この事件は通常の事件とは違うと考え、様々の資料が提出されることを予測したためと思います。実際の刑期はここで決められるわけですし、刑期は短いにこしたことはないわけですから、実際には、検察官と弁護人の間で様々な取引が行なわれていることが多いようです。この事件でも、極端なことを言えば、検察官は赤軍の一員であることを認めれば、そして何らかの情報を提供すれば、軽い刑を求めるとか、中途釈放を認めるとかいった働きかけをしてこないとも限りません。これも一種の司法取引なのです。原則を守りながら、しかし、有罪判決が出たという状況を踏まえて、これから量刑判決までをどのようにしていくかということは、極めて重要なことです。

= 控訴 =
 刑事事件の控訴も日本と米国では大きな違いがあります。最も大きな差の1つは、一審で有罪になった場合の控訴理由として、日本では事実誤認が認められていますが、米国では事実誤認が控訴理由になっていないのです。これは、先程述べた陪審制と関係があります。日本では刑事判決書に詳しい事実認定があり、証拠評価が記載されていますから、「一審判決は……の点で事実を誤認している」という主張が可能になります。
 これに対し、米国では、一審判決「被告人は……で有罪」というだけですから、どの点で事実を誤認したのかということが、そもそもわからないのです。事実を認定していないのだから、事実誤認がないと言ってもよいと思います。
 そうすると米国での控訴理由は何かということになりますが、これは控訴手続に法律違反があったということに限られます。たとえば、本件では、城崎さんのものとされる指紋が問題になっていますが、その指紋が付いていたとされるビール缶の採取が違法であれば、そのような違法な証拠を公判に提出することはできなかったわけですが、その裁判は違法ということになります。これが認められれば、一審判決は破棄になり、審理が地裁でやり直されます。そうなると、ジャカルタからまた証人を呼んでこなければならず、検察官は有罪立証がきわめて困難になるでしょう(もともと古い事件だった本件では、証人の記憶はますます薄れてしまいます)。
 実際にそうなっていくかは別問題ですが、いずれにせよ、米国の控訴審は法律審であって、陪審はなく、事実認定も新たに行いません。弁護人が控訴の理由書を提出すると、検察官が答弁書を書き、これに対して弁護人が再反論書を書くと、書面の手続は終わりになります。控訴審の裁判官は、記録と控訴理由書等を読んで、必要があると思えば弁論を書き、双方から直接意見を聞きます。そうでなければ、書面審理だけで結論を下すことになり、この場合には地裁の判決が維持される可能性が極めて大きくなります。ですから、控訴審の焦点は、高裁で弁論が開かれるかどうかということになります。これが判明するのは1年近くかかると思われますから、98年の終盤ということになるでしょう。
 
 米国の刑事裁判手続について、日本と比較しながら、いくつかの特徴をお話しました。城崎さんの件については、私も関心を持って注視していきたいと考えています。
[了]


ワシントン連邦地裁 陪審公判記録(抜粋)
1997年10月20日〜11月13日
< >内は記録ページを示す
[97年10月〜11月の陪審公判記録の一部から抜粋掲載します。一部とは、頁数から推測するに、全体の20分の1以下でしょう。和訳は日本公教育制度で中学生以上の英語能力を持つ方々によるが、米法律知識に通じてはいません。危なっかしい千鳥足、よろしく斟酌をお願いするものです。]

判事(ロバートソン):<626>……。陪審員の皆さん、目撃証言や資料が事実であるかどうかは皆さんが判断して下さい。当事件を通して皆さんが留意すべき刑法上の基本が3点あります。
 第一に、被告は有罪となるまで無罪とみなされる。政府による起訴は起訴でしかなく、被告の有罪を証明してはいない。告発である。
 第二に、当事件の立証は政府によってなされねばならない。有罪を立証する義務は政府にある。
 すでに何度も述べてきたように、被告が立証しなければならないことは何もない。
<627>そして第三に、政府は適度な疑い以上に有罪を立証しなくてはならない。全ての疑いというのではなく適度な疑い以上ということである。当事件の終りに、皆さんへは一つ、指示を告げたい。
 すでに話してきたし――これからも話すだろうが、皆さんは当事件を誰とも話してはならないし、話しかけようとさせてもならない。当事件を扱う報道がいくつか出るだろうが、それらに注意を払ったり、見聞きしてはならない。
 当法廷で聞いたことだけが事実である。皆さんを分けたり、ホテルへ送ろうとは思わない。皆さんはこの簡単な指示に耐えられると信じている。陪審が法廷での事実にのみ学ぶことは、被告と公判の双方のために非常に大切である。
 ここから明らかになろうが、皆さんは、旧い新聞を読んだり、歴史をひもといたり、調べたり、そういうことをしてはならない。証拠が全て出されるまで、当事件の事実を調査してはならないし、心を大きく持ち、いかなる主張をしてもならない。
 さて、当事件では1、2のことがらで特殊性がある。A;当件の多くの目撃証人は、この国で宣誓するのとは違ったやり方で宣誓する慣習を持つ。<628>米国人には通常のように法廷代理人によってなされるが、インドネシア人と日本の宣誓には私―判事が執り行う。彼らの宗教に従い、彼らが慣れているやり方で行なうためである。
 第二に、公判で英語以外が使用された場合は、公的法廷通訳を介してなされたものだけが証拠となる。何人かは英語でない言語を知っているかもしれないが、全ての陪審員が同一の証拠を考慮することが大切なので、英訳証拠を尊重しなくてはならない。英語でない言語のいかなる内容も認めてはならない。
 しかし、翻訳が本格的に違っているとすれば法廷に注意されたい。ただし、休憩時に。進行を妨げてはならない。休憩時に。
 指摘があれば元にもどり、証拠や映しを再考し、解決する。そうしたことが生じないよう期待するが、重大な翻訳が指摘された場合には、ということである。
<629>これらが断っておきたい全てである。弁護団の用意ができているなら始めよう。ミスター・ヴァルダー、政府側の意見陳述を始めてよろしい。


==政府側冒頭陳述
検事(ヴァルダー):ありがとうございます、判事。
 法廷、弁護団、そして皆さん、お早ようございます。昨日、本件を興味あるものにすると私が約束したと判事が判事席のあなた方に語られたが、それは警句だと思っている。もちろん最善を尽くすが、これから2週にわたって座り続けることになりましょう。私はそれほど大変な仕事になるとは思っていません。
 本件が非常に興味深いことを皆さんは知るでしょう。通常でない場所、通常でないできごと。多くのことがらが文化的、歴史的、その他で異なっている。
 判事が先に述べたように、冒頭陳述とは、本件の立証概要を述べることです。公判を通して解りやすく皆さんを案内する早分り道路地図であり、全ての目撃証言と証拠物件が適合している概観を皆さんに示すことにあります。本件はいったい、どんなものか? 1986年5月14日の午前11時頃、インドネシアジャカルタにあるUS大使館が爆撃された事件です。被告T・Sが大使館の敷地へ2発のロケット弾を撃ち込んだことに責任があることを証拠は示すでしょう。ロケット弾は<630>モルタル弾とも呼ばれ、約1ポンド[約453.6グラム]のトリニトルトルエン片――いわゆるTNTが込められていました。直径10〜20フィート[約3〜6メートル]の破壊能力をもつ火球と、巨大な規模の衝撃波を造り出すには十分なTNTでした。もし爆発したら半径10フィートは何もなくなったでしょう。
 ロケット弾には約1ポンドのTNTが仕込まれていただけではなく、被告は各々に11ケのボルトとナットを含め(ボルトにナットを巻きつけ)、ゴルフボールの2〜3倍の大きさにしていた。このような致死的物品を仕込ませた爆弾製造者の唯一の意図が、巨大な爆発で推進され高速で飛ばされた時に資産損害を起し、職員に死傷者を出す目的にあったことは証言から明らかになりましょう。
 本件はまた、米国大使館への攻撃の1時間くらいのあいだに11時半ごろ、2つの同時爆弾攻撃が不随していた。日本大使館へ発射された2つのロケット弾は爆発せず、他方のロケット弾は米国大使館に届かなかった。
<631>正午にカナダ大使館の外で車爆弾が爆発し、付近の人々が負傷し、約7台の車が被害を受け、爆弾を積んでいた車は壊れた。
 証言で皆さんに示されるでしょうが、本件での事実は、日本大使館に2発のロケット弾が発射された部屋をミスター・城崎は借り、また、日本……失礼、カナダ大使館に置かれた車爆弾の車も彼が借りたことである。
 被告に責任があるのは、滞在したジャカルタのホテルと国営レンタカー会社で、実行者として本件の事実に関与していると特定されたことからも、証言で示していくだろう。彼は25人位の非常に小さなグループの1員で、米・日・加、その他の国々の国益攻撃を目的とした、60年代をベースとする共産同・赤軍派から1970年に分派した自称・日本赤軍、被告がその構成員であることを証言で立証するだろう。
<632>被告がこの組織の一員であり、各々の爆弾に関与した証言を考慮すれば、彼が爆弾に責任あると結論づける証拠になろう。
 さて、今日、私たちはどうしてここにいるのか?
 大陪審が起訴を回してきたからである。起訴について簡単に述べさせて欲しい。判事が先に述べたように、たぶん明らかにはしなかった――明確には犯罪を挙げなかったと思う――大陪審の起訴は以下である。
 第一に、18US113(a)違反としての、殺人を意図した攻撃の罪。
 第二に、XVⅢUS1363としての、USの特別海洋、及び領土権である建物と資産とを破壊する試みの罪。
 第三に、US1116違反としての、国際的に保護される人員への殺人の試みの罪。
 第四に、18US112(a)違反としての、国際的に保護される人員の公的諸財産への攻撃の罪。
<633>4項目の起訴である。
 判事が述べたように起訴状自体は証拠ではなく、被告には何を防衛しなくてはならないかを示し、他方、我々、政府側には、彼を犯罪責任で拘束し、起訴罪状で彼を罰するために、合理的疑い以上の立証責任がある。
 起訴条項とその重要部分を読み上げるので、証拠調べと判事接辞の後にあなた方の評決がなされるのだが、本件での起訴条項を正確に知っていただきたい。
 起訴状のタイトルは、USA 対 城崎勉であり、以下は次である。
 大陪審は起訴する。第一に、インドネシアジャカルタで1986年5月14日頃、USの特別管理にあるジャカルタ米国大使館へ、ヒロフミ・イシダ及びジュンスケ・キクチとして知られている被告ツトム・シロサキは、US大使館敷地内の人々を殺す目的で2発のロケット弾を発射させた。これは18US113(a)を犯している。
 第二に、同日、同所で、ヒロフミ・イシダ及びシュンスケ・キクチとして知られる被告シロサキは大使館の建物を傷つけるため2発のロケット弾を発射させた。<634>これは18US1363を犯している。
 第三に、同日、同所で、国際法で保護されているUS大使館員を殺害するため、あらかじめ計画された殺意のもとに2発のロケット弾を発射させた。これは18US1116を犯している。
 第四に、同日、同所で、ミスター・シロサキはUS政府職員の公的前記物件を攻撃するため2発のロケット弾を発射した。これは18US112(a)を犯している。
 起訴状にはもちろん、大陪審員長とコロンビア州検事長のサインがある。
 起訴状の各項を我々は立証していく。
<635>証拠調べに入る前に幾つかの技術上の疑問がある。この事件がなぜワシントンDCで扱われるのか? 裁判地規定のXVⅢUS3238では、US法違反が管轄外及び境界外でなされた場合、違反者が最終的に居住していた地方で裁判がなされると基本的に定めている。明らかにこの条項は適用されていない。最終居住地が知られていない場合には、コロンビア地方で起訴が扱われる。被告はUSに居住したことがなく、起訴はワシントンDCで扱われた。要するに、変な言い回しだが、ここが正しい場所だ。
 さて、起訴状の条項をどう立証しようとしているのか? 非常に単純であって、1986年の4月の終りにもどり、これからの数週間、5月14日までにインドネシアジャカルタで起きたことがらを挙げる。その後、インドネシア、日本当局及び、最後にFBIの捜査を示す。この立証を通して、<636>約25名のインドネシア人の目撃証言がなされるが、そのほとんどは英語を話さない。日本人証言者は4名だが、一人だけが英語を話す[高橋正一]。
 シンガポール在住の前FBI員、パキスタンイスラマバードに赴任していた財務省役人、JRA専門家、そして犯罪捜査・研究に携わり本件の捜査にあたった約10名のFBI係官。
 判事、ここに小さな2つの地図があります。陪審に見せるため判事へ提出してよろしいでしょうか。

判事:よろしい。

検事:皆さん、ご承知のように事件はジャカルタで起きました。ジャカルタは世界の反対側にあり、地球をまっすぐ行くとアジアの東に出、シンガポールの南東、日本の南西、オーストラリアの北西にインドネシアがあります。約800の島々があり……
[以下、略]

判事(ロバートソン):……そして政府が有罪を証明するまで、または証明が終了するまでは、被告は無罪と推定されます。立証責任は政府が負うものなので、政府側には最初と最後に弁論する優先権があります。そこで、政府が弁論を行い、次に弁護人が弁論を行い、それから政府が最終弁論を行なう規則です。この順序で裁判を進めましょ

『風の人』復刻版1


風の人
(復刻版)

  1. 公判記録集+手記


2009年3月17日










責任編集   政治犯に対する不当弾圧に反対する会

復刻にあたって
本書は、1996年9月19日にネパールのカトマンズで拘束され、9月22日にFBIにより米軍機に乗せられアメリカ・ワシントンに拉致され、裁判にかけられて禁固30年の宣告を受けた城崎勉君を救援するために結成された「城崎君とともに浮かぶ会」の発行した救援パンフレット「風の人」を復刻したものです。
又、「風の人」とは別に発行された「公判記録断片集」や掲載されていなかった城崎君の手記も含めて掲載・復刻しました。

これらのパンフを中心になって発行し続けたのは、檜森孝雄と関博明の両君です。
両君とも既に亡くなられました。
檜森孝雄君は2002年3月30日、東京・日比谷公園で抗議の焼身自殺を遂げました。
彼は、72年5月30日の3戦士によるリッダ空港襲撃闘争の同志であり、日本赤軍の逮捕者の救援や城崎君の救援活動などを献身的に続けていました。
関博明君は、共産主義者同盟赤軍派の中央軍兵士としてM作戦に参加・逮捕され服役しましたが、彼もまた、かっての赤軍派同志であった城崎君の救援を檜森君らと献身的に担いました。
本書には、南田草介というペンネームで作った「ジョー・デ・ゲバルトヴィッチ」という詩が収められています。
関博明君も、2005年6月、ガンのため永眠されました。
「お〜い城崎 どこへ行く!

ジョー・デ・ゲバルデヴィチ

生きてりゃ会えるさ、こっち側
死んだら会えるさ、あっち側  」

と、うたった関博明は、笑って、あっちで城崎君を待っているのかもしれません。がそれは、城崎君が米帝監獄の中でくたばってあっちへ行くことを決して望んではいないでしょう。関君には、城崎君が解放されて寿命尽きるまで気長に待ってもらうしかないと思います。

城崎君は、98年2月ワシントン連邦地裁1審で禁固30年の宣告を受け、控訴しましたが、
2審は実質審理もなく控訴棄却し、刑が確定しました。
当初、テキサス州の監獄で服役していましたが、現在はインディアナ州テラホのCMUという政治犯ばかり集めた(イスラム政治犯が大多数)収容施設で服役していますが、連邦刑務所は懲役はない禁固刑ですので、日本の刑務所よりはある意味ではましな状態ともいえます。しかし、彼は服役後、白内障を患い、又近年緑内障も重なって左目がほとんど失明状態になり、治療を要求していましたが、当局は予算不足を理由に無視していました。救援連絡センターからの連絡でこのような状態を知った日本での動きで、シカゴ領事館の林領事が面会に行ったりしたこともあって、最近、突然治療に連れて行かれ、かなり改善したとの連絡がありました。

檜森・関両君が亡くなられた後、日本での救援活動は、唯一、救援連絡センターとの交通(文通)だけが細々と続いている状態だったようです。
このような状況を私達はつい最近知ることになり、城崎君を知るブンドや旧赤軍派日本赤軍関係者などを中心として救援活動が再開するようになりました。
雑誌「情況」や「人民新聞」、救援連絡センターの「救援ニュース」などで城崎君救援の声が載るようになり、2009年2月8日に京都で開かれた「政治犯対する不当弾圧に反対する会」でも、城崎君の救援が取り上げられました。

この復刻の作業を行なう過程で、私達は、城崎君のネパールでの拘束とFBIによる拉致事件の詳細を改めて知り、衝撃を受けました。KCIAによる金大中拉致事件とどこが異なるのか?と。FBIが86年のジャカルタでの米・日・カナダ大使館砲撃・攻撃事件の件でアメリカに連行して裁判にかけることは国際法的に許されるのか?もし、これが東京で発生した事件であったなら、日本で裁判をするべきであり、であれば、本来なら事件発生地のインドネシアで裁判すべき事件です。東京の事件でアメリカが強制的に「被疑者」をアメリカに連行したら、日本政府は金大中拉致事件のときのように主権侵害だと当然抗議するでしょう。しかし、インドネシアも日本政府も城崎君をアメリカへ連行することに抗議はせず、アメリカによる拉致を黙認もしくは容認或いは協力したと思われます。というのは、連邦地裁での公判にインドネシア警察も日本の警視庁も担当者を派遣し、積極的に協力しているからです。警視庁からは、高橋という警部が証人として出廷しましたが、結局証拠としては採用されませんでした。更に、ジャカルタの犯行現場と見なされるホテルから数日後に採取されたと言われる缶ビールについていたとされる指紋についても、日本の警察が提供して捏造した疑いが濃厚にあります。なぜ、当日の現場検証で採取されず、現場写真にも写っていなかった缶ビールが何日かたってから突然出てくるのか?ホテルの部屋から缶ビールも含めて12個もの指紋が出てきたとされているが、もし真犯人であればそんなドジをするだろうか?どう考えても、犯行を行なうとすれば、そんなドジなことは素人だって犯さないだろうヘマです。まことに眉唾ものの「証拠」ばかりなのです。指紋の上塗りなど、簡単な技術で、最近では、指に指紋のフィルムを貼り付けて入国する手口が明るみにでましたが、FBIの力を持ってすればいとも簡単に行なえる捏造工作です。
又、ホテルやレンタカー会社で目撃されている「犯人」と見られる「菊池俊介」と「石田博文」と名乗る人物の特徴は、城崎勉とは似ても似つかぬ人相・風体で身長も全く違います。これらの目撃証言は、ことごとく城崎君の無実を証明する材料のように思えるのですが、陪審裁判で14人の陪審員は、有罪を評決しました。ただ評決は1回ではまとまらず何回も評議して最終的に全員一致の評決になったと聞きます。
国選弁護人のタッカー弁護士の動きについても、この記録を読むと、はじめから犯人視して司法取引をもちかけたり、ジャカルタまで出張しながら、犯行現場の疑惑をろくに調べもしていない、日本の支援者とも一切交通をとらないなど、非常に首をかしげるところが多いと感じます。城崎君がタッカー弁護士を十分には信用していないのは当然と思われます。しかも、全て英語で進行しますので、城崎君の公判が十分なサポートもなく苦労したことがうかがわれます。私達でさえ、英文の資料についてはまだほとんど解明できてさえいません。
犯行声明を出した、「反帝国主義国際旅団」(AIIB)という組織は未だに正体不明の組織ですが、米・日・インドネシア・イタリアの捜査当局は、AIIBは日本赤軍であると「断定」しました。
ローマ・ナポリでも爆破事件がおき、この組織の名で犯行声明が出ていますが、、日本赤軍重信房子と奥平純三、更に城崎勉が犯人と断定され、国際指名手配されました。ここでも指紋が検出されたと言います。
しかし、日本赤軍はAIIBではないと明確に否定し、城崎君についても日本赤軍のメンバーではないと声明しています。犯行の手口・犯行声明などについて、見る人が見れば日本赤軍とは似ても似つかない組織であることは一目瞭然ですが、FBIが証人として喚問したファレルという情報専門家(?)はAIIB=JRAと「証言」しました。ハワイ大学教授で「日本赤軍派」などを著しているパトリシア・スタインホフ教授は、弁護側証人として出廷し、AIIB=JRAという図式を明確に否定しています。(彼女は岡本公三にもリッダの直後に面会している。)
82年にイスラエル軍レバノンに侵攻した時、日本赤軍メンバーと和光晴生や城崎勉など日本赤軍メンバーではない人もパレスチナ義勇軍として参加してイスラエル軍と戦いました。ベイルートから撤退した時も彼等はパレスチナ解放組織(PFLP)と行動をともにし、一時チュニスに避難したようです。その後、イスラエル軍レバノンで厳しい抵抗にあって、撤退を余儀なくされ、84年ベルートは解放され、パレスチナ人はレバノンに帰還しました。その中に日本赤軍も当然含まれていました。このような状況下で86年ジャカルタ事件、87年ローマ事件、88年ナポリ事件が起こります。日本赤軍がこのような作戦を行なう必然性も蓋然性も全く感じられません。どう考えても、このような作戦を行なう状況は当時の日本赤軍にはなかったとしか考えられません。
ただ、当時はアメリカはクリントン政権の時代でしたが、反テロのキャンペーンをはり、日本赤軍やIRAなど世界の反帝闘争の組織を「テロ組織」と指定した時期であり、これら「テロ組織」を壊滅する作戦を全世界的な規模で推し進めていました。つまり、日本赤軍の側にはジャカルタ事件などを起こす必要も必然性もなかったにしても、アメリカや日・欧などの諸国は反テロ組織の作戦を進める必要があり、例えデッチアゲであれ、何であれ、とにかく手当たり次第拘束して壊滅させる必要に迫られており、FBIもCIAも功を焦っていたと言う事ができます。
しかも、城崎君は77年のダッカ・ハイジャック事件で4年の刑期を残して超法規的措置で釈放され、日本赤軍に合流はしましたが、メンバーには加盟していません。それは日本赤軍の声明でも、本書所収の丸岡修・浴田由起子さんの証言でも明らかです。
彼は明確に、ジャカルタには行った事はないと断言しています。城崎君は86年はおろか92年までレバノンにいた事はまちがいありません。目撃した人、彼に会った人は多数います。彼が、86年にわざわざジャカルタに行くような必然性は全く考えられません。ましてや、犯行に使われたチェコ製の手製迫撃砲や爆薬・爆弾などの大掛かりな準備をできたはずもないと思われます。少なくともジャカルタ事件は単独犯ではなく、複数人によるきわめて組織的な犯行です。日本赤軍のメンバーでもない城崎君が単独でできるような作戦でありません。又、彼は日本赤軍とは連絡はとっていたようですが、メンバーでもなく、組織をもたない、一匹狼的な存在でした。その彼にあれだけ大規模な作戦を組織・実行できたとはどう考えても考えられません。あらゆる直接証拠・状況証拠は、城崎君の無実を意味するものばかりです。
彼は92年以降と思われますが、レバノンを出国して、最終的にネパールにたどり着き、僻地で鍼灸医として活動していました。ネパールの医療ボランティアとして活動していたのです。もちろん、彼はインターポールから国際手配されていますので、偽造パスポートを使うほかなかったでしょう。(フィリピン国籍のパスポートでパブロ・タマノ)ネパールの奥地で鍼治療に当っていた彼とジャカルタ事件はどうしても結びつきません。結び付けようがありません。
にもかかわらず、陪審裁判により、彼は有罪を宣告されました。検察側は、「sekigun(日本赤軍でも赤軍派でも彼らにとっては同じこと)は、アメリカ人は皆殺せと主張するテロ組織だ」(から城崎は有罪だ)とアジりました。陪審員をドーカツしたともとらえられます。こんな危険な奴を無罪にするような奴は愛国者ではないとでもいうように。陪審員には黒人も多かったと傍聴した救援連絡センターの山中幸男さんも言っていました。しかし、陪審裁判は短期間です。
1997年10月20日〜11月13日のわずか半月の期間の審理で結論を出しました。陪審員制度が導入される前の日本での裁判であれば、何年もかかった事でしょう。もし、日本での裁判であったら、少なくとも検察側のこのような弁論が大手を振ってまかりとおるようなばかげた魔女狩り裁判はできなかったでしょう。又、証拠や状況証拠を慎重に調べさえすれば、検察側の主張はまず通ることは難しかったのではないかと思われます。そもそも立件することすらできなかったのではないかと。日本からワシントンに出張した高橋警部にしても、警視庁にしても提出された証拠から考えて到底城崎君のやった事件とは考えてなかったのではないかと推測されます。事実、ローマ事件・ナポリ事件では結局城崎君は犯人ではないと日本警察も参加して捜査で結論付けられたといいます。(本文参照)更に、犯人として「断定」され、国際指名手配された重信房子さんにしても2000年に日本で逮捕された後でも、未だにローマ事件・ナポリ事件では立件さえされていません。もともと日本赤軍の犯行などとどこの国の捜査当局も思ってもいなかったように思うのは私だけでしょうか?
復刻版を起こし、公判記録や彼の書いた手記などを読むにつけて、私達は彼の無実を一層確信しました。ただ、これから本書を読まれる読者の方は、とりあえず、私達の主張はおいておいて、記録を虚心にたどっていただくようにお願いします。その上でどのように考えられるかは自由です。
もしあなたが身に覚えのない事件で逮捕され、30年の刑を宣告され服役させられたとしたら、しかも、この日本ではなく、アメリカに連れ去られた上で、監獄ですごさなければならないとしたら、あなたはどうされますか? どう思いますか?
その事を私達は、多くの日本の人たちに問いたいと思います。
そのための、ささやかな再出発がこの復刻版です。
亡くなった檜森・関両君の心残りだった思いを私達は受け継ぎ、城崎君の再審・無罪獲得・釈放のために、これから奮闘するつもりです。この知られざる事実を広範な民衆に知らせ、理解してもらうことからまず始めなければならないと考えています。
アメリカ国内にも城崎君を支援する人や組織があり、彼らとの連携も模索しています。
アメリカでは、最近、無実の死刑囚が、DNA鑑定などにより、再審で無罪になって釈放されるケースが相次いでいます。このような再審を支援する組織や専門家の方もいるようです。私達は、このような支援組織とも連携して城崎君の無実を一日も早く晴らしたいと考えています。
日米の連帯で、無実の城崎君を救出し、いつの日か再会できることを願って!!!
2009年3月17日                           (文責:西浦隆男)

目    次
復刻にあたって ・・・・・・・・P.1
1.風の人 準備号3(1997年10月5日発行) ・・・・・・・・P.6
2.風の人 準備号4(1997年10月11日発行) ・・・・・・・・P.10
3.風の人 準備号5(1997年10月23日発行) ・・・・・・・・P.13
4.風の人 準備号6(1997年11月5日発行) ・・・・・・・・P.16
5.風の人 準備号7(1997年11月16日発行) ・・・・・・・・P.20
6.風の人 準備号8(1997年11月29日発行) ・・・・・・・・P.27
7.風の人 №1(通巻9号)(1997年12月14日発行) ・・・・・・・・P.30
8.風の人 №1(通巻10号)(1998年1月11日発行) ・・・・・・・・P.32
9.風の人 №3(通巻11号)(1998年2月15日発行) ・・・・・・・・P.34
10.風の人 №4(通巻12号)(1998年3月28日発行) ・・・・・・・・P.36
11.風の人 №5(通巻13号)(1998年4月30日発行) ・・・・・・・・P.39
12.風の人 №6(通巻14号)(1998年5月10日発行) ・・・・・・・・P.41
13.風の人 №8(通巻15号)(1999年3月3日発行) ・・・・・・・・P.43

資料
1.風の人 米国ワシントン連邦地裁裁判断片集 (1998年10月21日発行)・・・・P.52
ジョー・デ・ゲバルデヴィチの歌 南田 草介 ・・・・・・・・P.53
米国の陪審制度と城崎さんの裁判 喜田村 洋一(弁護士) ・・・・・・・・P.56
ワシントン連邦地裁陪審公判記録抜粋 ・・・・・・・・P.61
2.Supplemental Briefへの補足説明 ・・・・・・・・P.87
3.付属資料1.丸岡修氏の証言書 (1998年1月9日) ・・・・・・・・P.95
4.付属資料2.浴田由起子さんの声明 ・・・・・・・・P.96
5. 丸岡修さんへの手紙 (城崎勉) 1998年1月25日 ・・・・・・・・P.97
6. 98年5月国際救援連来集会へのアピール 国際救援は今?(丸岡修) ・・・・P.101
7. 98年5月国際救援連来集会へのアピール (浴田由起子)  ・・・・・・・・P.103
8. 城崎勉さんへの手紙 (風の人) 1998年6月7日 ・・・・・・・・P.105


付属資料:世界・パレスチナと事件の関連年表 ・・・・・・・・P.106

追記
アメリカで服役中の城崎勉君が失明の危機!! 情況」2008年12月号 ・・・P.108

;;準備号3 97年10月5日発行
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無罪を勝ち取ります
共に浮かぶ会の皆様へ
97年9月14日
城崎 勉

 会の発足をとても喜ばしく、かつ力強く思いながら、なんら、それに呼応するアピールを出すなどしてこなかったこと、すべてを会の人々まかせにしてしまったことを、まずお詫びします。
 アピール文のタイトル「(私の)無実を確信する!」には本当に力強い支援を得た思いで一杯です。
 弁護士との意思疎通がうまくいかないくても、まあ仕方ないや、とあきらめてしまいがちになります。長い外国暮らし、意思疎通がうまくいかないことがあたりまえだったのではないか、いや、その昔、国内の弁護士とだってうまくいかなかったし、「同士」と呼び合う人々とだってソゴ、ズレがあたりまえだったんじゃないか....などと。弁護士が無実でない側にたっていることに、いらだちを覚えつつも、しょうがないとしてしまいがちになってしまいます。
 アピール文は、そういう私自身の在り方を叱咤激励してくれました。
 先日、弁護士面会があり、「前のレポート(裁判資料に関する私の意見レポート)は良かった。新たにまたドーンと入れるから....」と言っていましたが、会の皆様の力強い励ましに応えるためにも、もうすぐ入るであろう新たな資料と取り組んでいくつもりです。
 ところで会のアピール文、すごく感動しましたし、当然ながらこれが主ですが、同時に苦笑も禁じ得ませんでした(これが従であることは言うまでもないこと)。なんで苦笑したのかというと、幾つかのミス、誤解について書くと以下になります。

a カトマンズで捕まったのは昨年の8月ではなく9月です。より正確には、捕まったのが9・19で、米当局(FBI)に引き渡されたのが9・22。そのまま強制連行され、米本土に着いたのが23日の午前0時過ぎでした。

b 裁判を重ねてきているのは連邦地裁ですが抑留されているのはヴァージニア州のアーリントン郡拘置所です。多くの地裁は拘置所と併設されているのですが、連邦地裁の場合、それがなく、[ワシントン]DC内や周辺の拘置所に拘置され、裁判日に出頭となっています。

c これはどうでもいいことですが、残刑は4年半でした。

d これも別に問題とは言えないでしょうが、私は、どこへ行くのかも定かでなかった上に、当時、痔の手術からあまり日が経っておらず、足手まといになるかも、という不安も抱いたままでした。つまり、「世界の人々と....武装した解放闘争に参加....」という意識性はすごく希薄でした。それでも、獄中にいることよりも、とにかく「外」へ出て自分のできる範囲で貢献することが自分に荷されたこと、という考えから行きました。

e 「当時、『世界党-世界赤軍』....」という文には笑ってしまいました。私は赤軍派のメンバーとして、そういう言葉を口にしたこともありますが、実は私自身そんなことをまったく信じてはいませんでした。私が赤軍派に入ったのは、「日本国内で本気で武装闘争を考え模索している唯一の党派」と捉えたからであって、「世界党-世界赤軍」はもちろんのこと、じつに多くの点での違いを認識していました。国際根拠地論に魅かれる人もいましたが、私は国内のゲリラ闘争派(?)でした。
 このことを論じようとすると、かなりの紙数が必要なのでしょうが、ごく簡単に書くと、以下です。
 その昔、ヴェトナム戦争が激しく闘われていた頃、日本からの代表団----ということは共産党(系)か社会党(系)ですが----が、<いろんな物資が不足してお困りでしょう。出来る限りのことはしますから、何を送ればいいか教えてください。>といった趣旨の申し出をしました。これに対して、ホーチミン大統領は、<私たちの国は貧しい上に、長期の戦争、更には空爆などで思うような生産活動も出来ません。したがっていろんな物資が不足しているのは事実です。しかし、私たちにとって最大の支援は、あれこれの物資を送ってもらうことよりも、あなた方が日本国内で、アメリカによる侵略戦争を。その侵略に加担している日本の政府の姿勢を、やめさせるよう闘うことです>といった内容の応答をしたそうです。私は、そのホーおじさんの言葉の中に、自らの本来の使命が実に明瞭に示されているとすごく大きな感動をおぼえたものでした。(ちなみに、最初にこうしたことをはじめて見聞したとき、私はまったく勝手に、その発言は解放戦線の代表の発言と思い込んでいました。北はスターリニスト官僚の国といったような考えがあったからです。)
 上述したように、党派性として、世界党だとか国際根拠地だとかを口にすることはしましたが、そうするときには、我ながら無責任なことを言っているな(!)という思いでした。
 小国ヴェトナムの人々が物資の不足などの困難にうちかってアメリカの侵略戦争と闘っているのですから、われわれがさまざまな困難を克服しつつ、国内でゲリラ戦を展開-拡大していくのはごくあたりまえの使命だと考えていたのですから。

f 人民民主主義路線を鮮明にした5・30声明とは77年のそれだと思います。したがって、ダッカ闘争はその年に遂行されたということになります。

g 裁判所も政府の一部だといってしまえばそれまでですが、通訳を派遣したのは裁判所です。(この通訳女史は、少なくとも表向きは、政府=検察・FBIに対して、強い敵意を表すことがあります。ダソク。)

h 「司法取引」に関連してですが、「司法取引」とは日本でいうなら、損害賠償などした上で深く反省をいたしております、情状酌量のほどを....と言うようなもの。米国の場合は、積極的に検察・警察側に協力して、大幅減刑を策すということもめずらしくはないそうです。
 私の場合は、国(検察)側が、87年6月のローマ事件だの、88年のニューデリーシティバンク爆破事件だのといったのを、あるインフォーマーのデタラメ証言だけを頼りに、追起訴する態勢を示したのですが、その時期に、弁護士が突然、司法取引を持ち出してきました。弁護士だけでなく、いろんなところから、それに同意せよという圧力がありました。もし、あの圧力にながされていたなら、マドリッド事件(どうも二度も米国大使館にロケット攻撃があったらしい)やら、なにかわけのわからない事件をすべて背負わされるところでした。刑を軽くするどころかものすごく重いものに、他方、国・FBIの方は幾つもの未解決事件を一挙に「解決」して、軽い気持になれるという図式だったようです。
 最後に、裁判資料は、検察側の論理が幾つもの点で成り立たないことをはっきりと示しています。弁護士は基本的にそれを認めながらなお、更なる資料検討の中で、弁護士にも無実を確信させられるよう働きかけていくつもりです。
 そのためにも、会の皆様の力強いご支援は本当にありがたいものがあります。それに応えるべく、頑張ります。会の皆様やK弁護士との連携を密にして無罪をかちとります。

P.S.1 2ヶ月余りの公判延期は、本当に、「天が与えてくれたものかもしれない」という思いです。すごく共感・共鳴する言葉です。
P.S.2 パラドックスなのかもしれませんが、国内の革命運動論者にしても、やむをえない国外暮らしの中で義勇兵活動やさまざまな人民支援活動は、これまた当然と考えております。
城崎 生




;;準備号4 97年10月11日発行 より
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10/21公判開始まで、あと11日!
共に浮かぶ会の皆様!
97年9月21日
城崎 勉

 今日は、9月21日ですから、会の設立者の一人と○○&△△たちはそろって私の実家訪問中ということになるな....なんて朝から何度も考えたりしております。せっかくの皆さんの訪問なのだけど、きっと得るところ少なし、という結果だろうな、とも。
 私自身は、カトマンズで捕まったのが9/19、ネパールから合衆国への移送が9/22〜23、この拘置所に収容されたのが9/26、一年間が瞬く間に過ぎてしまったという感じがします。
 先日(18日)、早朝に突然「今日、出廷!」と言い渡されました。
 合衆国の場合、ほとんどの裁判所に隣接している拘置所があります。隣接というよりも、拘置所は裁判所の一部という方がより正確でしょう。
 したがって、普通、「出廷!」と言う場合、7:30分頃から地下の仮監へと集められ、そこで腰にチェーンを巻かれ、そのチェーンに手錠を固定され、かつ、5人ずつ数珠つなぎにされて、地下通路を通って、隣の(?)裁判所の監獄区へと行くことになります。といっても、私は地下通路へとつながっている空間(広間)へと数珠つなぎになった彼らが進んでいくというのを二度三度、視認したことがあるだけで、それから先へはいったことはないのです。なぜなら、私の場合、裁判はワシントンD.C.の連邦地裁で行われ、この拘置所へは「預かり」という形になっているからです。(D.C.の連邦地裁は拘置所を併設しておらず、そこへ出廷するもので)拘置中の者のすべては、どこかの拘置所への「預かり」ということになります。)
 さて「預かり」の身分である私の場合は、「今日、出廷!」と言われたら、自分の房から地下の仮監へと引っ張り出される時間がすごく早いのです。たいがいは6:30、時には6:00ということも。というのも、いつD.C.側からお迎えがくるかが不明だからです。朝のラッシュを時を避けてくる早く来る(7時頃)というのがよくあるパターンですが、時には10時頃に来たり、ということもあります。それを、完全に拘置施設の外へ出ることになるので、腰チェーンつき手錠に加えて鎖つきの足錠を装備(?)ということになります。歩く距離なんてほんの少しですが、護送用の車まで、片足を進める毎にジャラジャラと言わせながら、そう丁度、おしめをした子供がヨタヨタ歩くような感じで歩を進めなければなりません。なぜかというと、足錠がぶつからないように少し股を広げて歩かねばならないし、一歩の歩幅も鎖の長さに制限されるからです。("Let's go!"なんて随行のポリに言われて、そのポリと同じような歩調でもとろうものなら、とたんに両足に痛み。ヘタをすればバタンとひっくりかえってしまうかもしれません。なにしろ、バランスをくずした場合、腹部前方で固定されている手にバランス回復作用を要求するのはちょっと無理な相談というものだからです。でも、ひっくり返ったという光景はいまだ見たことはありません。)
 前置きが長くなってしましました。
 この日法廷(hearing)の中心テーマでは、来たる公判に向けた陪審員の選定に関して、判事が、検察・弁護士双方と意見交流し、方向性を確認していくことにあったようです。選定開始の日、その人数などなどで手短なやりとりが交わされました。
 それ以外に、この日の法廷で話され、私が記憶していることは、以下A→Dです。
A 検察側が相も変わらず「新たな事実発見(!)」を続けていて、次々とそれを提出している様子なのですが、最新のものとして、ホテルの壁から新たな指紋が見つかり、他方、ロケットの発射筒が入っていた箱からは血が発見された、ただし、その鑑定(?→翻訳)には2週間ぐらいかかる、云々というものです。
 これに対して、判事の方が、それはあまりにも時間がかかりすぎではないか。そういうことでは弁護側が反証のための準備をする時間がなくなるではないか、証拠提出期限は、今から一週間以内とする。それ以降のは証拠採用することはできない、などと裁定。
 以前のhearingでの確認では、証拠提出期限は、公判開始日60日までということだったのです。ということは、その確認時点では5/31がその最終日、現在、公判が10/20へと延びたことから、8/21がそれということになります。それがいつの日にか前の確認がうやむやというか、ないがしろにされたというか、こうした在り方自体、大きな問題です。加えて、私はこの日の検察発言は単なる脅しでしかないと把(*ママ)えています。そして、むしろ、へんな制限なんかして検察を助けてやるよりも、そういった「証拠」を是非とも提出させるべきだとすら考えています。というのも、今頃になって、壁から指紋だとか、箱から血を見つけ出したなどなどということ自体がおかしな話なのです。そういうおかしな話を今頃、公然とだせるということ自体に彼らがウソ製造能力を有していることをはっきりと示しています。そして、更に、もしそれらが私のものだなどということになれば、実はどのようにして11年余り前に、5週間余りも経ってから私の指紋と認定できたかという不可解なプロセスのなぞを解くカギをも提供してくれることにつながるだろうと考えています。
B 検察側が証人申請を「日本赤軍に関する専門家」なる人物について、弁護士が法廷を証言の場にすべきであり、講義・講演の場にしないという条件を要求して、少々やりとり。
 他にも、爆発物だけでも似たような専門家が3人もならべられていることへの弁護士からの疑問と若干のやりとり。
C また検察側がインドネシア人を12人も証人としていること対して、判事が、その翻訳者など、裁判所の方では予算の都合からしても無理であり、国(検察)側はそれらに責任を持って欲しい云々と要求。
 しかし、そうすることは、国側が自分たちに都合のいいような翻訳もできるということにも。
D 検察側が、被告は86年当時はヒゲなしだったのだから、公判に際してヒゲをそることを要求する云々。これに対して、弁護士は、あっさりとヒゲをそることに異議はないと応じたので、motionとしては却下。(合意事項になったしまったが、争点としての価値なし=失効→却下となるそうです)。
 しかし、事件当時、問題になっている石田氏や菊池氏はヒゲなしだったかもしれないが、私がヒゲなしだったなどという検察の論理に何ら反撃することもしない弁護士の在り方に、またか!という思いでした。
 
 このhearingに先立って、弁護士がほんのちょっとの面会、そこで....
(1) 8/14にメガメ作りのために検眼に行った医者は、なにかの手違いで処方箋のみを拘置所当局に送り---信じられないような話!---、それがD.C.のポリスへと送られ....。とにかく、今週中に(ということは、この18日か翌日19日というハズ)には私のところに届くということが判明した、というストーリー。しかし、これはストーリー、やはり届かなかったよ。
(2) 裁判資料(の差入れ)(?)! オー、忘れていた、すぐやる。という具合に相変わらず甘い口約束。時間がなくて書けなかったけど、K弁護士への資料送付は一体どうなっているのかな(?)!まさか、こっちの方も"オー、忘れていた"なんてのではないでしょうな....。

 この前、会のH氏のところへ手紙を書いている、その終わりぐらいのところで、ボールペンのインク切れとなってしまいました。この時のあて名書きは、看守氏からボールペンを借りて、ヘンな姿勢で....というものでした。ボールペンとか合衆国内用封筒とかを購入手続きしているのですが、なぜか私には届きません。今、書いているこのボールペンも、他のプリズナーから譲ってもらったもの。この前、あの小さな封筒とかメガネの件でもそうだけど、ヘンなところでイヤガラセをしているみたいです。なんとまあ心貧しき「民主主義」の国であることか、という気持ちです。でもそれは私の闘士をかき立てるだけなのにね、アハハ....。
 
 P.S.  K弁護士とT弁護士の直接電話がうまく働いていることを希ってやみません。
 
 城崎 生




;;準備号5 97年10月23日発行 より
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共に浮かぶ会(神奈川)の皆様

 10月7日に予審(prelimnary hearing)がありました。その簡単な報告をいたします。
 中心的な問題は、"Blood and Rage"の著書、Farrell氏---現在はどこかの大学の教授となっているようで、検察側はPrf.Fを強調していました---への尋問でした。この予審(の中心課題)は、弁護士側が検察側の証人申請に対して氏には証人としての資格がないというmotionを出したことに基づいている様子でした。(私自身はむしろ証人申請を逆手にとって、氏の著作のいいかげんさを公判廷で明らかにした方がよっぽど有益だろうという考えでした)
 判事の都合などもあって、あまり時間的余裕はないという条件下でのhearingでした。そのため申請書の質疑は"基本的に申請書・略歴などに書いてあることだから、あえてここでやることもないでしょう"という形で、ほとんどなしでした。
 弁護側は"氏はTerrorism"の専門家ということだけど、Terrorismとは何ぞや(?)" "それだったら、イスラエルレバノン侵略の後、米軍がジュネーブ地区などを攻撃したことがあるが、土地の人からみたら、米軍=Terrorismということになるのではないか(?)"といった問いかけから開始しました。しかし、判事が、"なかなか興味深い問答なのだけど、最初に断ったように、今日は時間が限られているので...."と、この問答はうちきりになりました。勿論、いろんなことを質問していったのだけど、要は弁護側は、"氏の知識or本の内容というのは氏が直接に収集したことに基づくものか、それとも新聞その他の方法での伝聞証拠に依ったものか、証人が認めたように被告との関わりにおける内容はすべて伝聞に基づくものである、したがって、氏は証人として不適格であり、判事は検察側の証人申請を却下すべきである"と要求したのでした。
 こうしたことの結論として判事は、"氏の証人としての発言(問答)に限定を付する。それは被告との関わりを考えて、71年の「M作戦」被逮捕、77年のダッカ・ハイジャック、及び86年のジャカルタ事件に限定する"と裁定しました。(T弁護士は、"証人は....限定...."という部分では"してやったり!"とばかりにニンマリしていたのですが、"86年の...."ではマッサオという感じでした。果たして、それも制約されるのかどうかはよくわからないけど、上記したTerrorism論争などを倍審の前でくりひろげたら、ちょっとした効果があるだろうし、更に、これは明らかに質問できなくなった著作の中のいろんな誤りなどを突くことで、こちらが有利なポイントをかせぐこともできなくなったのですから、私からみれば自ら足枷をはめてしまったようなものです)
 この他には、幾つかの細かい点についてあれこれ、そして裁定;たとえば、インドネシア人の証人に対して、通訳体制をどうするか→インドネシア語と英語の通訳は文章毎に行う方式でやる、英語から日本語へのは、これまでそうしてきたように同時通訳とする、公判中、検察側にFBIの人間の同席を認める、など。
 ちなみに、日本語の同時通訳のイヤフォーンは傍聴席でも借りられるようです。これはその日、通訳にあたっていた女性の弁なので、オフィシャルな確認とは言いかねますが、まあ、そんなところでしょう。
 これで、あとは20日からの公判開始あるのみ....と思っていたら、もう一度hearingを設定、この日付がなかなか都合がつかず....最終的に、15日15:00からとあいなりました。
 余談を(冗談みたいな話)を一つ。
 このhearingの前日(つまり6日、月曜に)、日本から何通かの手紙を受けとりました。そのうちの一つに、ワシントンD.C.周辺の地図のコピーが同封されていました。私は肉眼で(つまりメガネなしで)見ただけ、"これでは細かいところはわからんじゃないのかな"という思いでした。が、"そのMAPはセキュリティ上問題になる可能性が大きいので領置する"ととりあげられてしまいました。あらまあ、こんなこともダメなのか、なんて思っていました、その時点では。ところが、....
 このhearingの直前、弁護士が、"昨日、日本から手紙が来ただろう?! その中に地図が入っていただろう?! 一体、誰が何の目的で送ってきたのだ?!"などと詰問。
 要するに、拘置所当局からFBIを経て検察側へと情報が流れ、ひょっとしたら脱獄or奪還作戦を計画云々という推測にまでなっていたらしい、ということが判明しました。
 私が合衆国内に住んだことはなく、すでに1年余りになるのに拘置所ー裁判所の経路上の主要建物も知らず、ペンタゴンを見て驚いたり、capitol hill(国会議事堂)を見てポケーとなったり....という実情に対して、同情して送られてきたのですが....。
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      ★『Blood and Rage』、「血と怒り」とでも訳しましょうか。この本は、日本赤軍テロリズムとして断罪していて、城崎さんの手紙にあるように、伝聞資料に基づいた著作です。P.スタインフォフさんの著作部分も資料引用されていますが、こうした伝聞著作を証拠として提出する・させること一つをとってみても、城崎さんへの今回の起訴が如何にデタラメであるかの証左です。
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共に浮かぶ会の皆様

 10月15日、最後の予審(hearing)がありました。そのことについて簡単に報告します。
 ---実はこのhearingの前日の夕方になって、弁護士事務所から、検察側が申請している証人(の一部)の資料を入手しました。その中には事件直後のを含めた多くの調書も入っており、現在、その検討に私の頭の中も、「生活」の多くが制約されており、そのために本当に簡単にしかできません。
 Jury(陪審)の選出過程にあることが裁判長から報告がありました。百名〜百五十名(?)を無作為に選出して、書類回答ですでに何人かを除去した。その除去例の中には、(1)糖尿病、腎臓病で悩んでおり、病院通い。仮にそれがなくても、小便が近く、とても陪審に耐えられない云々、(2)過去3人の警官に殴られたことがあり、とても正しい判断はできない、云々、などなど。(なお、最終適に陪審員が確定するのは、公判に入ってからのこと。公判冒頭に弁護側、検察側が各々何人かを忌避できるそうで、そうした「儀式」の後、ようやく冒頭陳述へと入るそうです)
 検察、弁護おのおのが幾つかのmotion(却下申請とでも訳すのだろうか(?)。その中で面白かった二例。
 一つ、弁護側が"検察資料の幾つかに不備があり、従って証拠不採用すべき"旨のmotion。そのうち少なくとも私の学業成績については、いつそういう成績をとったのかは不明(かつ落第点だったのはどれかも不明)云々、これではあまり意味なし、加えて、それと事件とは関係もない、云々ということでmotion採用(つまり証拠としては不採用)
 今一つ、検察側がインドネシアのポリス(国警であれ、ジャカルタ地区警察であれ)対する質問は(政治的)事情があり、事件に直接関係しないことなどについての反対尋問は制限して欲しい云々とmotion。(初めは反対尋問をしないようにして....、だったのが、判事に指摘されて言い直し。)あれこれと応酬があったけど、結局、事件に関連したことに制限するということで、別にあえてmotionとして言うこともなかったにじゃないの、という判事の裁定。
 公判は、予定どおり、10月20日から。しかし最初の三日程はまだまだ双方のmotionやら法律論争やら、上述した陪審員候補への棄却やらなにやらが繰り替えされ、その後ようやく、陪審員を前にして冒頭陳述(検察側)に入っていくということです。そして、公判中は、月〜金、9:30〜5pmまで基本。
 検察側は計40人余りの証人を予定、弁護側は数人(5人〜10人のあいだ)を予定ということでした。

 追伸 今日、弁護士面会があり、改めて弁護士の協力、つまり黙秘を解くように要求してきたのだけど、(私にもスジがありまして)そんなの受け入れられるわけなし。
 そういうのは、いつものことだから別に驚かなかったのだけれど、驚いたのは、弁護士が私にワイシャツとかズボンとか持ってるか(?)と尋ねてきたこと。私の所持品は着ていたもの(下着)も含めてすべてFBIに押収されたまま。日本と違って、その押収品目録も私には来ないままなのです。そのことを話したら、首廻りは?胴廻は?などとサイズを尋ねてくるのです。大体において、ネパールにいた頃とはサイズが違っているし、元々US式のサイズは知らないなんてのもありまして....。"そんなのどうでもいいよ、自分はこの拘置所のユニフォーム(囚人服、つまり半袖のツナギ、背中にARLINGTON CO.JAILと記入あり)で十分だよ"と言ったところが、"そんなの着て出廷したらそれだけでJuryからguilty(有罪)と判定される云々"ということでした。要は、Juryの前で芝居のためにもまずは化粧からというところでしょうが、なんともはやという気分ではあります。
 97,10-16記




;;準備号6 1997年11月5日発行 より
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公判始まる! 10/20〜24の報告
共に浮かぶ会の皆様へ
97,10-26付け

 『風の人』準備号や「救援』紙など、次から次という感じで受け取っています。皆様のご支援・励ましをひしひしと感じています。どうもありがとうございます。
 公判を目前に控えたところで、弁護士事務所から、検察側証人に関する資料がどおーと差し入れになりました。それにザ〜ッと目を通した上で、弁護士向けに問題点、疑問点などひろいあげたメモを作る作業が公判開始前夜までかかってしまいました。公判開始までには、手紙書きとかいろんな書類の整理とか、いろんなことをやっておきたいと思っていたのですが、そんなことにはとても手がまわらないままに、公判に突入となってしましました。

        • 証人尋問では城崎さん退廷・退席----

 さて、公判開始というからには最初の日から陪審員が居並ぶ法廷での裁判....と思ってしまいますが、どっこい、最初の二日間はこれまでの予審と同様、弁護または検察側申し立てをめぐっての議論---これには証人に対する尋問とその結果をめぐっての議論も入っています---で、なんで公判に入ってからこんなことやるんだろう(?)と私には理解できないことの一つです。更に言えば、インドネシア人証人に関する申し立て--尋問--は、議論に際して被告の私が退廷となりました! これがほぼ一日半続いたのですが、なぜ私が退廷することになったのかというと、申し立ての出されているインドネシア人証人の多くは「犯人」を目撃したという証人なので、私がその尋問に同席したならば、彼らの目撃した人物のイメージとして抱いているものが現在の私のそれへと改められ、本裁判つまり陪審員の前での証言にも影響を及ぼすかもしれない、そこで予断を抱かせるようなことを防止するための措置、つまり被告を防衛するための措置として、私が退廷・退席になったというわけです。しかし、被告・弁護士側席に着いているのは、白人のT弁護士、黒人のH弁護士そして、モンゴル系の私という構成なのですから、一体、退席がどれだけ効果を持つものなのか、後述する似顔絵と共に、不可思議ことの例でしかありません。
 もちろん(?)、退廷になっているわけですが、そこで一体どんな議論がされたのかということは、私にはまったく不明でした。また、いつ退廷が解除になるかもしれないので、待機という形でした。

        • 背広・ネクタイ姿へ変身----

 陪審員の前に出るということは少しでも良い印象を与えるようにする必要性が伴うそうです。その一例が身なり、動作などにも注意しないといけない、というわけで、弁護士事務所は私のために貸衣装か古着かしらないけど、背広とネクタイ、靴をも用意しました。は、<背広とネクタイなんて窮屈でいやだよ、だいたいそんなもの着なれていないし、そんなもの着てすましているなんてかなりシンドイこと、それよりも獄のユニフォームである半袖のツナギでいる方がリラックスした気分で参加できる....>と言ったのですが、<そんなの着ていたらそれだけで有罪にされてしまう、ショーゲームみたいなものだから、パフォーマンスが大切なのだ>ということでした。
 そこで仕方なく、公判第一日目の20日の朝には、背広・ネクタイで出廷したのですが、ワイシャツの方はほぼ問題なしだったけど、背広方は型・胴・腰と、窮屈で窮屈で、もうそれを着ているだけで「苦しい!」と言いたくなるような感じ。加えて、ネクタイ。なんだか首を締めあげられているようで....。ホントに、この日はすぐ退廷になって、この衣装からも開放されて、ほっとしました。あははは....。
 二日目も一旦はその姿になったのだけど、この日も予審と同じようなものということで、すぐにアーリントン・ジェイルという文字が背中にくっきりと書いてある半袖のツナギに戻りました。要は、この二日間、私は背広とネクタイに慣れるための予行演習をさせられていたようなものだったんじゃないか、と苦笑せざるをえませんでした。

        • 陪審員候補者たちを前にして----

 三日目は、陪審員の選定を ほぼ一日が終わってしまいました。120人余りの中から最終的には(正12人+補6人 計)18人の陪審員を選出ということになったのですが、さまざまの質問への反応の中から少しでも自分たちの側に有利になる可能性を持った人材を残そう....とばかりに検察も弁護も必死。私の方は、よく判らないながらも好奇心をもってその過程をながめていました。決して居心地はよくないベンチに座ってその過程に参加することを強制され、それに耐えている陪審員候補者たちの辛抱強さには正直言って感心したり、これでは背広のことをとやかく言うわけにはいかないと反省したり、という状況出した。
 この陪審員選定は、(判事の任官式とか退官式とかいった)セレモノニー用の大法廷行われました。
はじめの予定では、陪審員選定のあと、本来の法廷へと場所を移して、冒頭陳述をも行うということだったのですが、上述したように選定のみでほぼ時間切れ近くとなってしまい、判事から陪審員への接辞も簡単なものとなりました。
 ----(丁度、始まったばかりの)ワールド・シリーズとか他のスポーツとか天候とかなどなどについては観るのも話すのも自由だけど、この事件に関するニュースについては誰とも話してはならないこと、判断するのは法廷に出された証拠に基づいてのみ行うべきこと、したがって法廷ではしっかりと見聞して欲しいこと、などなどがその中心的なものでした。
 私の裁判では人種構成なんて関係ないことなのですが、参考までに書くと、正陪審のうち白人は1人(男)、その人を含めて男は4人、残りはすべて黒人女性。副には白人男性1、同女性1が含まれ、残り4人はすべて黒人女性です。

        • 法定内で似顔絵作業----

 この陪審員選定過程の際に(そしてその翌日も)、絵描きが入ってきて、判事--検事・弁護士・私などの似顔絵作業をやりだしました。なんだこれは、そんなことしたら当然そのコピーが検事から、目撃したと主張している証人へと渡るではないか....と思いました。法律を勉強中という通訳によると、それは全然心配する必要ない、絵は絵であり、本人とは違うから云々という説明でしたが、私にはさっぱりその論理がのみこめないというのが正直なところです。

        • スピードアップ---- 
        • 検察冒頭陳述・弁護士側冒頭陳述----
        • そして証人尋問----

 四日目、ようやく本来的な意味での公判の開始。ます検察側の冒頭陳述、そして証人尋問へと進みました。あたかも、これまでの遅れを一挙にとりもどさんとしているかのような、早い展開でした。翌五日目(金)のも合わせると、インドネシア人6人、US3人の証人尋問が終了しました。

        • 日本の法廷との違いを実感----

 この両日で私は日本の裁判(法廷)との違いを改めて実感しました。
 これまでの予審の中でも「オブジェクション(異議あり!)」は何度も聞いてきたのですが、公判の場での「オブジェクション!」が力のほどを実感しました。
 誘導尋問とか、予審の中ですでにタガはめられているのを越えた時に、あるいはそう感じられた時に「オブジェクション!」となり、判事がその意義を認め、その質問を無効にする場合と却下して質問--回答(証言)をうながす場合とがあるのですが、もし、異議を認めるのが続いたりすると尋問者そのものにすごいプレシャーがかかり、質問内容がかなり違ったものになるだろうな、と思わざるをえませんでした。
 その一例になるのですが、五日目の午後には、かの"Blood and Rage"の著者、W.Farrellが証人台に立ちました。検察側は、日本赤軍とはいかに恐ろしいことをやった組織か、また被告はどんな恐ろしいことをやったかなどをいろんな角度からFarrellに訂正させたかったのですが、なにしろFarrellの知識は自らの直接取材ではなくその他からの伝聞に基づくものであり、これは大きくタガがはめられていますし、証言内容は71年のM作戦、77年のダッカ・ハイジャック作戦そして86年のジャカルタ事件に限定することも確認済みなのです。そんな状況なので検察側がFarrwllに語ってもらいたかった(らしい)、日本赤軍による対US大使館攻撃の前例としての在クアラルンプール領事館占拠云々には、弁護士はオブジェクションを連発し、そのほとんどが受理され、日本赤軍リビア(カダフィ)やイランとの関係云々ももちろん同様、などなどといった制約の中で、弁護側の反対尋問も含めて所用時間はわずか2時間たらずでした。
 (へたをすればこのFarrellの尋問(証言)だけで一日以上ということも予測していたのですが、すごく簡単に片付けることができたという感じでした。そして、T弁護士は、どうだい、してやっただろうと言わんばかりの上機嫌でした。)
 この二日間で一番時間がかかった証人はレンタカー会社の元従業員で、Mr.菊池の契約書をつくり、パスポートや免許証のコピーをとったという女性でした。この女性は検事べったり、弁護士の質問には応えようとしないといった対応にでたので、判事が「××さん、弁護士の質問は決してプレッシャーをかけるようなものではありませんよ、応えるようにしてください」と警告を発したりしました。
 実は、私もまたピンチヒッターの通訳も、四日目の陪審員の退廷時にバタバタと動くという失敗をしてしまいました。
 私の方は、検察側の冒頭陳述で赤軍派日本赤軍が同一視されていることに対して、若い通訳たちにその違いを知ってもらおうというのが目的でした。他方、ピンチヒッター通訳の方は、声が大きくなったり(それを廷吏たしなめられて)つぶやき声になったりしたことから、私に対して「聞こえましたか?」と飛び出してきたのがそれです。二人とも廷吏(警備員)から注意されましたが、これは陪審員の目からは「減点!」になるのかもしれません。
 ある廷吏によると、(これまでのところでは)弁護側の(判定)勝ちだそうです。
 忘れるところでした。判事は陪審員を笑わせるようなことを言ったり--それがあたり前らしい--、とても日本の法廷では考えらませんね。

P.S.
 陪審員って12人のはずなのになんで席は14もあるんだろう....と不思議でした。それがやっと明らかに。なにしろ私の陪審は計18人なので、その固定席の他に更に4席を用意したのですから....
 97.10-26
 城崎 生

(見出しは浮かぶ会で付けました。)




;;準備号7 1997年11月16日発行 より
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公判第2週の報せ(10月27〜30日)
共に浮かぶ会の皆様
11月2日
城崎勉

 「風の人 準備号5」や空気の入るナントカなどなどこの一週間に受け取りました。本当に支えられているという思いで、元気一杯というところです。
 まず、お詫びと訂正をしなければなりません。
 「風の人 準備号5」のP.3右側の中段ぐらいにあるのですが、10月15日の予審での申し立ての一つに関して、正しくは、私の学業成績については、弁護士側からの申し立てが却下で証拠として採用するというのが判事の裁定でした。私は、そんなものは証拠として意味はなく、申し立てが採用されるのが当然と考えていたこと、及び、マイクを通じて法廷内に流される英語の音声の強弱がひどくイヤフォーンからの同時通訳の日本語のうまく聞き取れなかったことから、自分の考えのとおりになったと早合点していたのです。誤報を流したことをお詫びします。ついでに言うと、検察側は、私が工学部に在籍していたことから爆弾やロケットの基礎知識を有している、と立証したがっていること、それが証拠の一部として採用された理由ということです。
 さて、公判第二週(10/27〜30)について簡単に報告します。本来なら、31日(金)までの五日間のはずですが、この日は判事の都合で(?)休廷だったため四日間でした。
 証人尋問の進行状況は、日本人4人、インドネシア人10人、US人6人が終了し、他にインドネシア人証人の尋問が進行中となっています。勿論(?)、全員が検察側です。
 判事は思うように進行していないことにやきもきし、陪審員のいない場所で双方に早い進行を何度も促しているのですが、証言の矛盾や証拠能力そのものをめぐっていろいろと問題があるためなかなか判事の思惑どおりには行かないという実情があります。
 裁判のナガレとしては、圧倒的に被告・弁護側有利!と言っていいでしょう。
ただし、在NYのある人からの手紙に旨、記されていました。ということは、検察側が提出するさまざまなオドロオドロしている証拠物とそうした法律の存在が陪審員にどのような心理的作用を及ぼすのか不明なので、決して楽観はできないということになります。
 以下、私にとって印象的だった事例をいくつか記します。上に「圧倒的に有利」と記したことがそれらの中に示されると思います。<その一> 高橋にまつわる証拠能力について
 高橋とは元警視庁公安一課の高橋正一のことで、検察側は高橋に私が赤軍派中央軍のメンバーで「M作戦」で16件も起訴されたことなどを証言させようともくろんでいたのです。が、陪審員を退廷させての尋問の中で、高橋は当時のデスクとして16件の取調べに関わっていたのであり、それを日本なら立派な証拠能力をもった証人として通用するけど、US法では、直接尋問者でないので不可能はことが明らかとなり、検察側はオタオタ。更に、私がいつから赤軍派中央軍に参加し....と自供したと高橋が証言するはずだったらしいのだけど、高橋が、「それは私がいろんな事実を照合して作成した報告書です」と言うに及んで、検察側はまっさお! 「高橋に記憶をよび戻してもらおう」とかなんとか言って見ぐるしい姿をさらけだすという一幕もありました。
 実は弁護側の申し立てを立証するため、私も証人台に立って、日本における拷問的取調べの実情や弁護士との交通権のなさなどを話す予定になっていましたが、検察側のあまりにも見苦しい姿にあきれ返ったのか、助け船を出すつもりだったのか、が「これ以上こういう形でやってもムダなので....」と裁定(つまり証言範囲を限定)し、陪審員を席に戻して高橋の証言となったのです。
 言葉足らずなので分かりにくいかもしれませんが、日本でなら証拠となるものもUSでは、伝聞なので証拠能力なし(!)となる一例としてあり、私には印象的でした。<その二>二女性証言のおかしな証言
(a) Pホテルの元受付係は、彼女がチェックインを受け付けたMr.菊池は被告席に座っているにちがいないと断言しました。しかし、新しい説を持ってです。
 彼女はこれまで、Mr.菊池の日焼けしたような(汚い)髪、きつい目つきなどを特徴としてあげ、とくにその目つき、目をみれば100%判別できるとも言っていました。ところが、法廷では、「彼はカッコよかったので、もっと話していたかった」などと言って皆を笑わせたばかりか、「そのカッコよさが今も残っている」から私にまちがいなしと証言しました。50男をつかまえてCUTE(かわいい、かっこいい)とはなんてことだ!ウーン。
 「なかなかの役者ぶり!」
 という感じでしたが、しかし、キツイ目のことにはまったく触れず、その理由がすぐに判明。それは、検察からネクタイの色柄で示すように言われたとき、コンタクトをしていないのでネクタイの柄がよくわからないと言って、わざわざ私の方向に近づかざるをえなかったからです。
(b) もう一人の女性。Mホテルの元受付係もやはり新しい説をもち出しました。
 それはカメラ事件とでもいうもので、Mr.石田が彼女をそのことでひどくののしったというものです。だから決して忘れることはできないと言って検察をニンマリさせました。ところが、その忘れることのできない顔を公判廷では「見当たりません」と答(*ママ)えたので検察はオタオタ。丁度、休廷になったのを利用して、用事をつくって、彼女を私の近くへと連れてきたりしたのですが、そもそも人違いなのですから、記憶がよみがえるなんてことが起こるわけがありません。あはは....。
 当然ながら、弁護側は別の証人へのものを含めて、こうした矛盾証言を鋭く追求したのは言うまでもないでしょう。
 他方、検察側は、Mホテルの受付係でこりたのか、以前から別の人物(W氏[イニシャル表示に替えました=浮かぶ会])と似ていると言っていた女性には、「忘れました」「憶えていません」と連発させて弁護側の追求をそらすよう工作した様子でした。<その三>ポリス(現場写真班)に対する検察の大失態
 検察は、彼がUS大使館及びそこの発射地の写真班長だったことを証言させ、はいごくろうさまといくと考えていたようです。実際、何人もの証人がその程度の証言で終ったりしています。
 ところが、弁護側はそれを許しませんでした。
 彼のチームは、まずPホテルへ行き現場証拠写真を撮った後。US大使館の方へと回ったのです。が、検察の方はそのことを見落としていたのです。それは以前にFBIエージェントが彼を尋ねたときも、FBIにとって最大の関心事であるUS大使館のことだけを尋ねたということに由来していると言えます。そんな過去のいきさつはどうでもいいとして、弁護士がPホテルの調査報告書を示しながら尋問しだしたので、まず検察はアゼン、ボーゼン。
 そればかりか、弁護士がその報告書に添付されている827号室の写真のコピーの一つを示して、「ここに缶は写っていると言えるのか?」と質問。このポリスは「コピーは鮮明でない」をくり返して逃げ通した形になったのですが、検察の方はびっくりぎょうてん、まっ青。というのも、そこにありもしなかった缶(ソフトドリンクだともビール缶だとも説は一定せず)から、それをもって、すべてが私の仕業であると立証しうる最大の証拠となっているからです。


 次に、法廷におけるエピソード的なもの----もちろん、中には後に裁決に影響を及ぼすものもあり----をいくつか紹介します。
◎ あるインドネシア人は、弁護士によって検察側からの下工作について質問があった際、検事席に同席しているのがFBI要員であることをバクロするというハプニングが起こりました。予審での裁定では、同席を認めるが二人がFBIであることを明らかにしないこととなっていたのですが、陪審員にも二人の身元が明らかになり、他方、弁護士の方はこれで話がしやすくなったと言わんばかりに、「エージェントK」を連発。ハハハ....。
◎ ある証人のおかしな発言を追求していた弁護士は、US大使館に貼りだしてある「テロリストの発見・逮捕への協力に賞金」という話しをもちだしました。検察やFBIが無駄としか思えないほどに大量の証人を呼び寄せているとことの理由の一端がそれでも明らかになった、と私には思えました。そして、上記したUS内での対テロ法の効果など考えると、そうしたことが証人だけでなく、陪審員にもなんらかの影響を与えるであろうことを考慮せざるをえないと考えています。
◎ 30日の午前の法廷を学童が参加。ナントカ学校の7年生で約140人くらい、引率者2人、これだけでも私にとってはビックリだったのに、裁判長が「これは11年前....で被告は日本人、現在の証人はインドネシア人で、この法廷では3カ国語が用いられ....」などと解説ときたので、「ウーン、日本とは全然違うな!」とうなりそうになりましたよ。ホント。
 この判事はジョークのとぼしい法廷を考慮してか、陪審員のために一日に一つか二つはジョークを言うのですよ。大笑いしたくなるようなことがあってもニガ虫をかみつぶしたような顔をしている日本の判事と大違い!
◎ 菊池氏(本物)の証人尋問のとき、弁護士が一葉の写真をとりだして、私に「これは本当に君ではないのか? もし君だったら、提出した後、大変なことになるぞ!」とオドシ。ヒラヒラさせながら言うから良くみえない。けど、まさか合成写真ではあるまい。....後でわかったのは、私が退廷したときの尋問のときレンターカー会社の職員が「警察が来て証拠書類(を押収するのではなく)その写真をと(*ママ)っていった」と証言したらしいのです。弁護士の方はインドネシアへの調査旅行の際に、それを把握した上で警察当局にかけあって数々の写真を入手していたこともわかりました。ナルホドネ、ケッコーヤルジャナイ!と思うと同時に、私の反応をみるためにわざとヒラヒラさせながらオドシてみせるというイヤラシイ手口を使うなっての!とも思ったものです。
◎ 「送った」はずの裁判資料が東京のK弁護士にはいつまで経っても届かなかったり、私に対しても「すぐ入れる」と約束しておきながら裁判資料が入らなかったり----最新の例では冒頭陳述。何度も要求し、その都度、OK! 判った!と言っているのだけど全然その気配なし。おかげで私の方から手紙(公判廷での問題メモ)も手渡すこともできず、とどこってる----と書いたら、持ってきてくれ、私からも渡すことができました。
 上述のように独自調査で手腕を発揮し、検察をアゼンとさせたりしてはいるのだけど、弁護士との関係は決してうまくいっているのではないことを付け加えておきます。

P.S.
第二週の出来事とは直接関係はないのですが、おかしなことに気付きました。
 インフォーマーのことです。かのYK氏(※注.菊村憂氏と思われる)を重刑へと導いたアルメニア人インフォーマーの証言のみを頼りに検察FBIは私にローマ事件やシティバンク事件をおしかぶせようとしました(なんとその同じ時期に弁護士などからは、有罪を認めた上での「司法取引」をおしつけようとしました)。
 FBI説によると、私はそのインフォーマーにローマ事件をやったのは自分だ、と自慢したそうです。これまでうっかりしていたのですが、ジャカルタ事件はローマ事件のほぼ一年前のことであり、私の指紋云々というストーリーはとっくに作られていました。もし、私がFBIの描くような口軽の自慢屋だとしたなら、私がインフォーマーに対してローマのことだけでなく(というよりもローマのことよりも)ジャカルタのことも自慢したはずではないでしょうか? いや、それどころか、各地で起こっているいろんな事件も自分が関わっていたと自慢したことでしょう、そういう男なら。
 FBI・インフォーマーのでたらめぶりが改めて明らかになるのではないでしょ
うか。

 11.2  城崎 生



公判第3週の報せ(11月3〜7日)///////
共に浮かぶ会の皆様
11月
城崎 勉

 公判第三週目の状況、エピソードなどを報告します。
 第三週は、日本からはるばるお越しいただいた支援の方が二人、傍聴席に陣取り、無声ではあれ心から励まし、声援を送ってくださいました。(このことに気付いてあわてたのか、大使館の方もこれまでの一人体制から二人(以上)体制へとなったようでした。
 ----税金もムダ使いするなよ、と言ってやりたい。といっても私は日本国に対してこれといって税金は払っていないけど、でも言う権利はあると思ってまっせ)。
 証人尋問はインドネシア人9+\人(この\人は前週からの継続)、US人証人7+\人(この\人は前に証言したのが特別にでてきたもの)でした。そして、これまで検察証人は一応、終了となりました。
 ----エッ!おい!たしかインドネシア人証人は25人ということだったんじゃなかったけ(?)まだ、何人か残ってんじゃないの?!と言う人がいたら、その人の疑問はもっとも。実は、途中何度でも判事から公判のスムーズな運営について検察・弁護双方に注意・警告があり、そうした結果、その他にも証人申請されていたのだけど、裁判進行のため何人かは省略となった様子なのです。同様に、弁護士側の証人もすでに大幅削減になったみたいです。
 ----悲しいかな、私には最終的に何人申請しているのかも分かってはいません。
 ついでに、ちょっと先走ったことを言うことになりますが、被告・弁護人の証人の尋問は12日(水)からで、それまでは陪審員はお休みだそうです。が、10日、11日、もしくはそのどちらかには、弁護側からの数多くの申し立てをめぐっての論戦になるものと私はみています。弁護士側の申し立ては、これまでの証人尋問過程で、明確にウソの証言をした、もしくは信憑性に欠けた証言をした、といった人物の対して、その証人の証言すべてを削除もしくは部分削除をするということになります。(ウソ証言とか信憑性に欠けるという判断は、過去の調書との矛盾や他の証言との矛盾などから判定されています)
 いきなり予告めいたことに入ってしまいまいました。第三週の報告としてやります。
 全体のナガレとしては弁護士側有利ということに変わりはないと思うのですが、検察側が突然きたない手を用いて挽回を策したので、バランスが検察側へと傾いたかもしれません。
 今週のインドネシア人(US人証人)の全員は警官(捜査と鑑識)でした。が、いろんなところで、証言や過去の調書などとの矛盾が顕在化し、この事件の捜査のいいかげんさやうさんくささが明らかにされてきました。それはまた、法廷において検察席に同席しているFBIエージェントの調査・報告書のでたらめさも明らかにし、更には、公判廷で、私がどこに座るのかを証人に入れ知恵していたことも明らかになってしまいました。
 これは検察側にとっては、とんでもないことでです。
 そこで検察側はあれこれとあがいて見せました。最初に、“92年の筆跡”なるものを云々しました。これは検事から、「それが被告の筆跡かどうかも明らかではないでしょう」と即刻、却下となりました。次には、“ネパールからワシントンDCへと連行中の筆跡”を云々しました。これもまた却下。
 そこで「奥の手」として、その飛行機内で被告から押収したと称するフィリピン・パスポートと他の写真計4枚をモニターTVを使って写し(出したのですが、画面に写し出されたのは私自身が驚くような写真へと変造されたものでした。
 11年前Mr.菊池が使ったといわれるパスポートのコピーがレンタル会社でつくられ、それを再度、白黒写真にしたものがあります。これは弁護側証人として提出されています。が、これでは顔は判然としません。勿論、私とは別人としか言いようがありません。
 ところで、検察側は上記計15枚の写真のうち、弁護側にコピー提出していた1枚を除いた4枚に、多分コンピューター捜査をほどこして、その弁護側証拠に似せた顔に作り変え、それを公開したのです。つまり、本来の私の写真の公開ではなく、それに上記証拠の特徴のいくつかをもった顔へと変造したものを公開したのです。そうした変造・操作をはばかるように検察は、サッサッ、チラッチラッという汚口を使いました。
 モニターTVを見ていた私もびっくりでした。実に薄気味の悪い、言うなれば「狂気のただよう顔」が次々と開示されたからです。おまけに明らかにインチキというのを示していました。口ヒゲつきの写真だったものから口ヒゲが消え、他方、口ヒゲなしの写真は口ヒゲつきになり、髪の長さまで現在のそれとそっくりとなっていたのです。----私はネパールに行って、坊主のところと関係するようになったのを記念して、一旦、坊主刈りにしました。と同時に、口ヒゲもそったのです。その写真はそれから10日程たってからのもので、イガグリ頭、口ヒゲなし、仮に「坊主の修行をしている」と言ったものとしても十分、通用する時期のものでした。

 わき道にそれた解説はどうでもいいとして、とにかく実に薄気味の悪い写真のディスプレイでした。この写真は結局、弁護士側からの申し立てが受け入れられ、証拠取り消しとまりました。「(写真を複製してパスポート写真サイズへと作ったものと検察側は言っているが)複製した以上、証拠能力に問題あり」というのが判事の裁定理由でした。しかし、モニターTVを通して陪審員の脳裏にうえつけられたであろう、“Mr.菊池と同一人物の可能性大なり”という強烈なイメージは、後に言葉では否定されるとしても、やはり、かなり不利に作用するものと考えます。
 悪いイメージということでは、折しも、デンバーではオクラホマ爆弾事件の裁判が、ニューヨークでは世界貿易センター爆弾の裁判が行われており、そうしたニュースが毎日流されています。それを知った上でしょうが、FBI証人の中には、対テロ・反テロをむやみやたらと強調する者もいました。陪審員へのイメージ作戦であることは言うまでもありません。
 以上のことを考えると、法廷弁術などでは弁護側が圧倒的に有利なのだけど、イメージ操作などで検察側がやや有利、というのが第三週というところでしょうか。
 ちょっとくり返しになることも恐れずにまとめると次のようになるでしょう。
 弁護側による検察証人に対する追及のなかで検察が冒頭陳述の中で犯人は私であるとした論理の主要ポイントが揺らいでしまいました。検察側の最大の拠り所であり、動かしがたい物証であった指紋も、ジャカルタ警察指紋班のいいかげんな言動や物証のうさんくささを浮き彫りにしてしまいました。
 冒頭陳述の主要論理がぐらついてしまった上に、この事件を担当し、公判廷でも検察を支えているFBIエージェントが証人に工作していたことも明らかになってしまいました。それで、最後のあがきとでも言うべく、修正写真の開示という汚い手段をうってきたのです。
 そんな状況だったら、「文句なしに勝ち!」なのですが、判事の証拠不採用の裁定理由が出てくる理由、つまり弁護士が公判廷においては一旦証拠として公開することに合意したという失点があります(弁護側が同意しなければ、検察は証拠を開示することはできないのです)。つまり、汚い手段を許すことになった、こちらのミスをも考え合わせなければならないのも、かなり深刻に把え(*ママ)ねばならないと私は考えているからです。

 以下、公判と関連したエピソードを幾つか。
 ----検察側が一時的に座席にシフトしたことがありました。H弁護士が証拠として提出するため、まずV検事書類を提出。老眼のV検事はそれを突き出しように読んでいたのだけれど、尋問を続けていたH弁護士はそれを読み終えて突きかえしていると思ったのか、V検事の手から取り上げてしまったのです。
 このことからV検事がH弁護士の態度をここごとくに反発し、みにくい有様をさらすというハプニングがあり、みんなの失笑をかうということがありました。
 ----例の「奪還騒動」のせいか、公判に入ってから行き帰りのルートがめまぐるしく変わっています。おかげで私は拘置所←→裁判所の決まりきったルートではなく、いろんなところの「観光」を楽しませてもらえるということになっています。例えば、ポトマック河畔公園の中(わき道?)をくねくねと走ったり---春だったらどんなに桜がきれいだろうな...---、アーリントンに入ってからわざわざ河沿いにずっと走り、林の中を抜けて(実に紅黄葉が美しい!)気がついたら拘置所の近くにきていたり、などなど。
 ----ただし、一回ひどい目にあいました。裁判所の地下の仮監を出るとき、“今、腰に巻くチェーンがない、上に行けばあるから、それまで後ろ手錠(もちろん足錠をつけた上でのハナシ)”ということだったのですが、上にいったら今度は“チェーンを積んだ車は全て出払っている、な〜にしばらくの辛抱だ”とそのまま車に押し込まれてしまいました。そもそもこの護送車は、乗用車の全部シートと後部シートの間に仕切りパネルがはめ込んであり、後部シートに座らされる私たちは膝がつかえるために正面をむいて座ることができません。それでも前手錠だと、背中の上部はほぼ背もたれに密着させることができます。ところが後ろ手錠のため、密着させえたのは(運転席の後ろに座らされたこともあって)左の肩からヒジまでのみ。当方の事情を理解していたためか(?)、この運ちゃん、ポリスの特権を乱用して車線変更、路肩走行、割り込みなどすごい運転。その揺れに肩からヒジだけの密着で対応しようとするものだから私の左手はたちまちしびれだしてしまい、拘置所へたどりついた頃は、かなりの感覚喪失状況、手錠から解放された後、しばらくマッサージせざるをえませんでした。言うまでもないでしょうが、この日に限って外の景色は私の脳にはなんら反映しませんでした。
 ----金曜日の公判午前の部が終わって地下の仮監へ戻ったら、なんと昼食(用のサンドイッチ入り袋)はもうなし。私自身の体験・目撃としてこれが三回目。これまでの二回は同房者と分け合って食べたりしてしのいだが、この日は同房者はすでに拘置所へ帰っていた(し、在房していても食べ終わった後だったでしょう)。
 何故こういうことが起こるのかというと、USのポリスの腐敗のため。つまり本来は頭数どおりにあるはずの袋が、顔見知りの者(?)には二つも与えられたりするため、足りなくなってしまう。
 おかげで、午後の法廷は腹ぺこで大変だったのですが、良いことも。それは弁護士側が手配してくれたのか、普通の人が食うバーガーランチが用意されていたということ、うまかった。けど、この時は「5分間のみ休廷」ということだったので、味わっている余裕はなく、とにかくムシャムシャほおばっては飲み下し。なんとか食べ終わって、出廷を待っていたら、もう今日はこれで終わり、だって。それならそうと言って欲しかった。あははは....



;;準備号8 1997年11月29日発行 より
////////////////////////////////////////////////////////////////////////<11.29 城崎さんと共に浮かぶ夕べ 資料集>

A 共に浮かぶ会の皆様
[この手紙は米国からFAXで送られ、不鮮明なために欠落などの可能性がありますがご容赦ください---浮かぶ会]


 まず、会の皆様をはじめとしていろんな方々から力強いご支援・励ましをうけながらそれに十分に応えられなかったことをお詫びいたします。
 すでにご存じのことと思いますが、訴因4つすべてにおいて有罪という評決を許してしまいました。
 公判の第四週は、私の印象を許してもらうならば、合衆国による策謀=茶番で終始したというところです。
 前の週の終わりにH弁護士が、「数多くの申し立てをして検察側証人の何人かを排除する。....」という意味のことを言っていました。したがって、判事が「月、火は休廷で陪審員は水曜に....」と言ったけど、月、火もしくはそのうちの一日は陪審員抜きでの法律論争が闘われるものと私は考えていました。(このことで私は、支援、傍聴にかけつけて下さっているYさんから朝寝の自由を奪うということを許してしまいました。)
 裁判そのものに触れる前に、舞台裏での茶番である第二の散髪事件に触れなければなりません。
 私の収容先であるアーリントン拘置所の11A区では月曜が散髪日となっています。(拘置所のパンフでは、被収容者は月一回散髪することができる旨、書いてあります。が、それはあくまでもパンフの上のことであって、私に限って言えば、申し込んで無視されることがしばしばです)
 上述したように月火は出廷するものと考えていたのですが、ま、申し込みだけでもしておくか、出廷無しでかつ散髪オーケーということならもうけものということだろうという気持ちでした。しかし、月曜の出廷はなし。他方、他の者の散髪は大体いつもの時間に開始されたようでした。けど、私には声はかからず。ああ、またすっぽかしかと思っていました。
 「散髪だ」という声がかかったのはかなり遅くなってから。えっ、これから....なんとなく嫌な予感がしました。なにか口実をつけて断ろうか、という考えもチラッと浮かびました。しかし前の散髪から6週間経って大分伸びているし、かつ何よりも公判があとどれ位続くのかの見通し、メドも立っていない情況でしたから、このチャンスを活かすことにしました。
 しばらく待って私の番。散髪屋はまったくの新顔。なるほどおしゃべりが全然聞こえてこなかったのはそのせいかと納得。
 開始したとたん、「しまった!」と思ったのですが、もうやめるわけににはいきません。散髪屋の手がふるえていたのです。これではとんでもないことやられかねないな、とこちらも内心びくびくもの。多少おかしくなってもかなわない、早いとこ無事に終わってくれることを願うのみでした。
 ちょっとたっては進行具合を見定めて....という感じでさっぱり進まないのです。そんなとき、突然「まだ公判中なのか?」と尋ねてきました。「そう。しかし、どうして知っているの?」と私が応えたとたん、看守が飛び出してきて、「早くしろよ!時間がないのだから、あと5分で終れ!」と言うと同時にすぐ近くでの監視体制に入りました。
 私は、「この調子では5分では終れないだろう。けど看守が看ていればこいつもそんな変なシバイはうてないだろう」と考えました。まったくうかつな話でした。
 しばらくして、これで終りと言ってきました。びっくり。耳のうしろからエリにかけてふさふさした髪が残っていたのです。「やられた! バカだな!」と後悔。というのも、あの散髪屋(囚人)はもちろん、そこの看守も護送の看守もみんなグルで、奇怪な姿を知っていても知らぬふりをしていたのです。にもかかわらず看守がいるからまだ安心だなどと考えていた自らのおろかしさ、甘い考え、....まったくバカとしか言いようがありません。幸いにも、火曜はナショナル・ホリデー。当然、出廷なし。そこでレクリエーションの時間に同囚に助けてもらって、このふさふさを切り落とし、うしろ首部に一線を画してもらいました。(*ママ=風の人準備号8で「一線を画してもらいました。」と記載されている)はさみが使えるのなら簡単なのですが、使えるのはT字形カミソリだけ。これでこうした作業をやろうとすればけっこう時間がかかる上、なかなかうまくいかないのは言うまでもありません。それでも、なんとか見れる程度にまでやってもらいました。助けてくれた同囚には感謝感謝。
 同時に、この調子でFBI・検査側の汚い策謀を乗り越えて絶対に無罪を勝ち取るぞと私の意気込みもあらたにしました。しかし。それは私の意気込みだけだったようです....。
 水曜からの公判が再開されてまたびっくり。
 まず、弁護士側からの申し立てが、言われていたのとはうらはらに、すごく少ないし、弱弱しい。更に、弁護側は当初20人余りも証人申請していました。すでにそのうちの何人かは取り下げていることはわかっていましたが、少なくとも(1)Mr.石田=Mr.菊池=私とする検察側のでたらめな論理にはっきりと楔をうちこみ、(2)インドネシア当局を中心とする指紋操作をより鮮明にさせるための証人を幾人かは呼ぶものと考えていました。しかるに、弁護側証人のインドネシア人は一人も来ないということがまず明らかにされました。あの軍部独裁の国では、弁護側証人として出てくるということはそれだけでも危険なことになるのです。加えて、US人も一人も呼んでいないということが示されました。
 代わって、国務省の対テロエージェント--検察側証人としてすでに出廷--を呼んで尋問するということになっていたのですが、T弁護士の

2.8政治犯に対する重刑攻撃に反対する集会

2.8反弾圧集会の報告
2月8日政治犯への不当弾圧に反対する集会は山中救援センター事務局長等60名の参加をえて,救援集会としてはまれに見る盛況のうちに行われた。
PFLPライラ・ハリドの熱い連帯の挨拶を得て、パレスティナ義勇軍、西川、城崎両君をはじめとするアラブ赤軍の救援・支援をどうするか白熱した4時間の討論が行われた。

①集会基調報告 
西川、城崎両君はパレスチナ支援にはせ参じた義勇兵である。西川君はフランスに囚われたパレスティナ戦士を解放するためにハーグのフランス大使館を占拠したハーグ闘争。日航機をハイジャックし、日本の刑務所に囚われている日本赤軍等を解放したダッカ闘争で起訴され、高裁で無期懲役の判決を受け、最高裁に上告中である。彼はダッカ闘争には参加しておらず、冤罪である、
城埼君はジャカルタアメリカ大使館を砲撃したとして、ネパールで逮捕され、そのまま米軍機でアメリカに拉致され、30年の懲役でアメリカで服役している、しかいこれは全くのでデッチ上げである。かれはジャカルタに行ったこともないのである。救援の手をアメリカに差しのべ救出しなければならない。

②連帯発言
 *山中 幸男(救援連絡センター)〜よど号グループ、日本赤軍の救援活動の経過 「一日でも早く、彼らを取り戻すことを根底において、知恵と力を絞って取組むべきだ。」
*渡辺亜人(帰国者の裁判を考える会)〜重信、西川、和光等の経過
 *足立正生パレスチナ・ガザ情勢
 *前之園紀男〜獄中体験
 *仲尾 宏〈反戦・反貧困・反差別共同行動(きょうと)代表〉「 報復、見せしめの重刑攻撃、予防拘禁が、戦前の戦争体制に向って行われたように、今、行われてきている。そうした、司法の反動化との闘いを呼びかける。」
鈴木邦男一水会)〜新左翼の頑張りを
*ピオ・デミリア(ジャーナリスト)〜政治犯は獄中にいないイタリアの現状を報告し、  
国際的な運動の展開に協力する。
*川口和子(弁護士)
*黒石昌朗(革共同再建協議会)「星野君は冤罪だが、無期という重刑を課されたのは、71年沖縄闘争に対する権力の報復攻撃である。星野君の救援の運動を、単に救援運動として取組むのではなく、権力に対する戦いの中に、その一翼として、闘っている。」
③連帯アピール
*西川純
 *重信房子
 *戸平和夫
 *ライラ・ハリドーPFLP 
 *赤木志郎(よど号グループ)
 *塩見孝也
 *蔵田計成
 *山田洋一(人民新聞編集長)